錯綜

「はぁ、どこのお大尽かは知らないけど、酔狂なこったね。あたしも一緒に捕まりたいくらいだよ」
 アストリアーデの後方から、溜め息と、リアの呆れたような声が聞こえてくる。少し離れたところから、水が流れるような音も聞こえた。近くに川でも流れているのだろうか。
 足の裏が捉える感触は、やがて土からより固いものと変わって行った。誰のものともわからない靴音が、かつかつと乾いた音を響かせる。
 建物のような場所に入ったと思われてからも暫く歩いた。
 何度か角を曲がり、階段を上り、床は、固いものから次第に絨毯と思われる柔らかなものとなる。
 どこかの洞窟とか、誰も寄り付かない廃墟とか、地下牢という場所ではなさそうだった。リアの言葉からしてもかなり快適な場所で、そして広い。
「!?」
 腕に触れられた感触があり、思わず身を硬くしたが、それはリアとは違って、とても控えめで優しいものだった。
 それは逆に、アストリアーデを不安にさせる。
 その手は、そのままアストリアーデを導き、歩みを進めさせる。戸惑いながらも従う他はなく、気がつけば、椅子に座らされていた。
 多くの人の気配、金属音――誰かが息を呑む音。
 痛いほどの緊張感が、ぴりぴりと肌をさする。
 やがて、目にかかる布が静かに外された。
 誰も声を上げず、それぞれの驚きの反応をし、視線を彷徨わせた。それは、あまりに意外な光景だったからだ。
 真っ白なテーブルクロスの上に几帳面に並べられたナイフとフォーク、スプーン。
 湯気の立つスープと色鮮やかなサラダ。
 先ほどから香りはずっとしていたから、料理が近くにあるというのは何となくわかっていた。けれども、それは椅子に座った囚われの身の自分たちの前に置かれている。
 アストリアーデは周囲を見回す。
 細長いテーブルから離れ、控えている数人の男たち。皆、給仕服を身にまとい、白い仮面をつけていた。
 そして、腰には剣。
 物騒な代物だが、それを隠そうともせず――いや、明らかにこちらに見せるようにしている。牽制のつもりだろう。だが、それは見掛け倒しではないはずだ。
 続いて席についている者たちを見る。
 アストリアーデが馬車に乗る前に見かけた女たちは、全員揃っているようだった。
 皆一様に青白い顔をしていた。俯いている者もいれば、震えているものもいる。泣き出しそうになるのを、必死で堪えている様子の者もいた。恐らく皆、剣を持つ男たちに囲まれていることに怯えているのだろう。
 そしてもう一つ、彼女たちを震え上がらせているのが、目の前に置かれた食事だった。
 今はスープとサラダしか皿にはないが、美しく畳まれたナプキンに、銀色に輝く食器。
 捕らえてきた者に、こんなに豪勢な食事が必要だろうか。
 誰もが直感していた。
 ――これは、最後の晩餐だ。
「いただきましょう」
 そんな緊張の中、暢気な声をあげたのは、ナオだった。白いナプキンを静かに開き、膝の上へと乗せる。
「皆、お腹すいてるでしょ? せっかくのこんな豪華な食事、食べないと損だし、食べておかないと、いざという時動けないわ」
 彼女の言葉に、誰も応えなかった。ただ困惑したように、ナオの動きを眺めている。
 皆が空腹なのは確かだ。ここへ来るまでにも多少の食事は与えられていたが、ただでさえ恐怖と不安に身を縮こまらせているというのに、狭い馬車の中で、目の前にこちらを監視する目があり、とても食べた気になれるものではなかった。
「あたしも食べようっと!」
 そんな中、アストリアーデも明るく声をあげ、急いでナプキンを広げる。
 ナオが食べようというのだから、きっと変なものは入っていないのだろうし、彼女の言うように、逃げるには体力が必要だ。
 傍らのスプーンを手に取り、まだ湯気がのぼっているスープを掬うと、口へ運ぶ。
「うん、すっごく美味しい!
 周囲に笑顔を向けるアストリアーデを見て、向かいの席に座っていた少女が、少し迷うようにしてから、自らもおずおずとスプーンを手に取り、スープを一口飲んだ。その顔に、ほっとしたような笑みが自然と広がる。
「美味しい。こんな美味しいスープ、初めて」
 すると、堰をきったように、皆食事を口にし始めた。ある者は少しずつ、ある者は一気に。
 そして、ぽつぽつと他愛のない話をし合う。
 その間だけ、今の状況を忘れられる気がした。

「……ちゃん、……アストリアーデちゃん」
 囁く声に、アストリアーデは目を開けた。辺りは真っ暗だった。時々寝息と、虫の音が聞こえる。
 すぐ近くに迫った人影に驚き、一瞬声を上げそうになるが、短い制止の言葉で、声の主をようやく理解した。
「ナオ? どうしたの?」
 皆寝静まっているので、アストリアーデの声も自然と小声になる。すると、ナオは無言のまま、ドアの方を指差した。
 食事の後、そのまま同じ部屋に寝床が作られた。食事の時は気づかなかったのだが、部屋の隅に簡易的なベッドが人数分用意されていたのだ。
 ベッドだけではなく、同じ部屋に手洗いもあり、用を足したいからと言って部屋を抜け出す方法は使えなかった。また、部屋のどの窓にも頑丈な格子がついていた。
 見張りの男たちも姿を現さなかったので、どうにか逃げ道はないかと皆で探して回ったのだが、それも徒労に終わり、流石に疲れも押し寄せてきて、いつの間にか一同は眠りに落ちていた。
「!?」
 また声を上げそうになったアストリアーデを、ナオが手の動きで制する。ドアが、いつの間にか開いていた。彼女の手に細い針金のようなものが握られているのが、夜目がきくアストリアーデには見える。
 ナオはそのままアストリアーデの手を引くと、外へと出た。
 外には長い廊下が左右に伸びており、等間隔に並べられたランプの炎が、古風な調度品や絨毯を淡く照らしていた。
 そのままドアを元のように閉め、再び針金を鍵穴に差し込もうとするナオに驚き、服の袖を引くと、彼女はアストリアーデの耳元に顔を近づけ、「後で説明する」とだけ言うと、素早い手つきで針金を動かす。かちり、と小さな音がした。
 ナオは訳がわからず佇んでいるアストリアーデに小さく頷き、もう一度その手を取る。
 アストリアーデは少し逡巡した後、今はナオを信じてみようと、静かに足を踏み出した。

「ここまで来れば、大丈夫かな」
 建物を出て、暗い道を暫く歩いた。
 木々が生い茂る場所へと入った時、ナオが口を開き、立ち止まった。彼女は、そのまま深い息を吐く。
 アストリアーデは来た道を振り返った。
 そこには、大きな屋敷が立っていた。規模が大きくはあるが、普通の家のように見える。
 やがて屋敷から視線を離し、姿勢を戻したアストリアーデに向かい、ナオは懐から出したものを見せた。
 通行証だった。
「私は、アレスタン軍の任事官をしているの」
 ナオの言葉が、最初は上手く頭に入ってこなかった。
 けれども、その意味がわかると、安心感と戸惑いが、ない交ぜになった奇妙な感情が訪れる。
「今回の事件の捜査のために、囮として潜入した」
 事件。――そう、確かに事件だ。自分も誘拐され、囚われの身となった。
 でも、自分たちはこうして抜け出せたが、他の者はどうなるのだろうか。
「あの屋敷の場所が特定できるものを仕掛けておいたから、暫くしたら私の仲間が来る。そうすれば、あの人たちは助かるわ」
 アストリアーデの心配を読み取ったかのように、ナオは続ける。それを聞き、気持ちがほっと緩んだ。だが、まだもやもやと燻るものはある。
「私はこれから別の場所に向かわなきゃいけないの。そこでサリュートア君たちとも合流することになってるわ」
 サリュートア。
 その名前を聞き、驚いたと同時に、懐かしい気持ちが体にふわりと広がった。まだ会えなくなってからそんなに経った訳ではない。けれども、あの後どうなったのかがずっと心配だった。
「サリュートア、無事なんだね!?」
「ええ。私の仲間が見つけたの」
 無事なことがわかって心底ほっとしたと同時に、会いたいという気持ちが膨れ上がってくる。
 そんなアストリアーデに大丈夫だと言うかのように、ナオはゆっくりと頷いてみせた。

 ◇ ◇ ◇

「これは、俺たちが『リポーター』と呼んでいるものだ」
 サリュートアがオーファに、どうやってアストリアーデたちのことを見つけるのか聞いたところ、返ってきた答えがそれだった。
 そうして彼は、親指の先ほどの物体を目の前にかざしてみせる。
 地下室には日の光は差さないが、サリュートアの自宅と同じく、天井が光を点しているため、十分に明るい。
 オーファが持っている物は、黒い小さな箱のようにも見えた。やはりこれも同じく、『遺産』なのだろう。
「この中に入っている物質は、日の光に触れると溶け出し、それぞれが固有の信号を発し始める。それによって場所を特定する。完全に溶けてしまえば、証拠も残らない」
「その信号は? どうやって受け取るの?」
 浮かんだ疑問を素直にぶつけると、オーファは今度は小さな板のような物をポケットから取り出した。それも同じように黒かったが、表面が艶々と光を反射していた。
「それはこの『リーダー』で読み取ることが出来る」
「へぇ」
 サリュートアの反応を見て、オーファは口もとを綻ばせる。
「お前、驚いたりはしねぇのな。ここ入って来た時もそうだったが」
 サリュートアはどきり、とした。
 自分の家がそうだったから、すっかり慣れきっていたが、『遺産』に囲まれて生活している人間など、ごく僅かに違いない。
 頭を急いで回転させる。
 そして、呆れたような表情を作ると、少し大げさにため息をついてみせた。
「だって『科学』のことって、文献に沢山残ってるじゃないか。古本屋にだってあるし。怪しいものばかりなのは確かだけど、僕はそういうの信じてたし」
 オーファはそれを聞くと片眉を上げ、「そうか」とだけ答えた。
 信じてくれたかどうかはわからないが、憶測を巡らせたところでどうしようもない。
「それより、僕ももちろん連れて行ってくれるよね?」
 連れて行かないと言われたって、どうにかしてついて行くつもりではあったが、作戦の指揮官の了承を取った方が良いのは間違いない。
 テーブルに手をつき、じっと注がれるサリュートアの視線から抜け出し、「茶でも淹れるか」とオーファは部屋を出て行く。
 その態度に釈然としないものを感じたが、サリュートアはおとなしく、彼が戻ってくるのを待つことにした。

 オーファが淹れてくれたのは、サラウェアの茶だった。柔らかく、少し甘みがある香り。
 母が好きで、心を穏やかにする作用があるとかで、サリュートアもよく飲まされていた。幼い頃はやや青臭いような風味が苦手だったが、飲んでいるうちにいつの間にか慣れている自分がいる。
 薬草茶などオーファには似合わないような気がしたが、彼は無骨な外見の割に手先が器用だし、茶を入れる姿も様になっていた。そういうところは、父の友人の大男を思い出させる。
 そのまま暫しの間、黙って茶を飲んだ。
「お前、親はいるのか?」
 いつかされると予測していた質問だ。だから、頭の中で繰り返し答える練習をしていた。
「いない。だから、絶対に妹を助けたい」
 すんなりと言葉が口から滑り出てくる。真っ直ぐにオーファの目を見た。
 ――大丈夫。
 動揺はしていないし、嘘だと見破られない自信があった。
 オーファは、また「そうか」とだけ言うと、続けてサリュートアに聞いた。
「ならば、人を殺す覚悟はあるか?」

 ◇ ◇ ◇

 アストリアーデは、その男たちの姿を、呆然と眺めていた。
 ナオと森の中を黙々と歩き、空が白み始めてきた頃、男たちは突然木陰から現れた。
 七、八人――いや、十人くらいはいるだろうか。悪党、としか形容できないような風貌と登場の仕方だった。
 皆、手に剣を持っていた。形やサイズなどは様々だ。
 その切っ先は上や下に向いているものもあれば、アストリアーデたちに向けられているものもある。
 金目の物を出せ、とか、お決まりの台詞もなかった。それぞれ微妙に違う、気味の悪いにやにや笑いを浮かべながら、ただじりじりとこちらに近寄ってくる。
「動かないで」
 ナオは男たちを見据えたまま、アストリアーデに手のひらを向けた。
 動こうと思ったところで、足が地面に張りついたかのように動けない。足が小刻みに震えて、立っているのだってやっとだった。
 格闘を教えてくれたジェイムも、アストリアーデは筋が良いと褒めてくれた。自分も、そうなんだと感じていた。
 けれどもジェイムは、怪我をさせないようにと気遣いのある拳を向けては来ても、アストリアーデを殺しても良いと思いながら、剣の切っ先を向けて来たりはしなかった。
 そんなこと、当たり前だ。
 リアに銃で脅された時だって、そうだった。
「あん? 姐さんヤル気? 勇ましいねぇ」
 賊の一人がだらしなく息を漏らしながら、ナオに向かって言った。しかし、彼女はそれに取り合わず、黙って男たちを見渡した。
 アストリアーデは不安に押し潰されそうになりながらも、それを黙って見守るしかない。
「そうでもないわ」
 普段通り淡々とそう言って、ナオはジャケットの内側に手をやり、何かを取り出す。
 銃だった。
 銃はまだアレスタンでは珍しい代物だ。一般人の認識としては『金がある者が持っている珍しい武器』程度で、詳しいことを知る者はほとんどいない。だが、その強力さは知るところであり、それを見るだけで怯える者もいる。
 だが、先ほどの男は、それを鼻で笑い飛ばした。
 そして男が再び何かを言おうとしたその時――ナオが動いた。
 銃声と共に放たれた弾丸は、近くにいた一人の男の腕に命中したようだった。男は大きな悲鳴を上げ、腕を押さえる。持っていた剣が宙を舞った。
 その剣が下に落ちる前に、ナオは剣を掴み取り、そのまま迷いなく、無防備な姿を晒している男の喉元めがけて振るう。
 ひゅぅっと音がし、男は鮮血を噴き出しながら後方へと倒れていく。
「――!?」
 これには、その場の誰もが驚き、息を呑んだ。
 しかし、ナオはその一瞬の隙を逃さない。咄嗟に剣で自らを庇おうとした別の男の革鎧の隙間に剣先を滑り込ませ、深々と潜り込ませる。男の苦痛の叫び声が、静かな森に響き渡った。
 ナオは今度はその男の剣を奪い取ると、切り掛かろうとしていた男の剣を弾き、宙に舞わせた。そのままその男にも、容赦なく切り掛かる。
 アストリアーデは、返り血を浴びることも厭わずに、男たちに立ち向かっていくナオを、信じられない思いで見ていた。
 躊躇いなど、全く見て取れない。狙っているのは全て急所だ。彼女は、確実に相手を殺す気で戦っている。
 最初はへらへらと笑っていた男たちの顔に今あるのは、形は違えど、恐怖だった。それに耐えられなくなった者は、その場を次々と離れていく。統制などありはしなかった。元々そんなものなど、男達の間には存在しない。
 気がつけば、その場に残されたのは、剣を杖のように支えにし、肩を大きく上下させて荒い息をつくナオと、それを呆然と見守るアストリアーデだけだった。
 我に返り、ナオに近づこうとするアストリアーデの足が何かに取られ、滑りそうになる。
 血だ。――人の血。
 それを認識した途端、襲ってくるむせ返るような血の匂いに吐きそうになり、鼻と口を慌てて手で抑える。
 周りは恐くて見られなかった。
 ただ、その場から走って離れた。

「何であんなことしたの!? 殺さなくたっていいじゃない!?」
 近くにあった川で、ナオは服を洗い、髪や体についた血を洗い流した。
 川原で火を起こし、少し落ち着きを取り戻すと、思わずアストリアーデはナオに感情をぶつけていた。
 肌の露出した薄いシャツ姿になったナオは、長い黒髪に溜まった水を絞りながら、いつも通りの口調で答える。
「私は、自分の能力を正しく把握してるつもりよ」
 彼女は、濡れたジャケットを火のそばへと寄せた。はぜる火の粉が、時折ジャケットへと踊りながら近づく。
「あの人数を相手に、あなたを守りながら、さらに手を抜いて戦えるほど、私は強くないの。そんなことをしていたら、二人とも死んでいたわ」
「でも――銃だってあったんだし! もっと脅かすとか、死なない程度に撃つとか!」
 アストリアーデの熱弁に、けれどもナオはゆっくりと首を振った。
「銃はね、一回発砲すると、次の弾を撃てるようになるまでに準備が要るの。あれだけ人数がいるのだから、その間に攻撃するのは簡単」
「でも! ……だけど」
 他にもきっと方法が――そう口にしかけて、本当にあったのだろうかという疑問が、アストリアーデの頭をよぎる。
 誰かに助けを求めれば、来てくれただろうか。――近くに人家もない森の中で?
 役人にでも助けを求めるのだろうか。――軍人と一緒に居るというのに。
「私はあなたを死なせる訳には行かないし、私も、ここで死ぬ訳にはいかないの」
 ナオの口調は、相変わらず淡々としていた。それがかえって、起こった出来事をはっきりと浮かび上がらせ、アストリアーデの心に強く刻む。
 自分の存在が、彼女にあんな戦い方をさせた。
 その事実が、アストリアーデに重くのしかかった。

 ◆

 それから二回、日が昇った。
 途中小さな町にも立ち寄り、食料や必要なものを買うことも出来た。だが、先を急ぐとのことで、宿泊することはなかった。
 でも、野宿にも慣れたし、夜でも十分に暖かい季節だったから、そんなに問題はなかった。
 ――虫が多いのは、少し嫌ではあったが。
「アストリアーデちゃんは、好きな人、いるの?」
「えっ?」
 三回目の日が昇り、手ごろな木の根に座って簡素な朝食を食べていた時、ナオに唐突に問われ、アストリアーデは戸惑いを隠せず声を上げる。
 彼女にそういう話題は似合わないような気もしていたから、そういった意味での驚きもあった。
「好きな人……いないなぁ。ナオはいるの?」
 丸く硬いパンをかじりながら顔を覗き込むが、明るくなってきた空が眼鏡に反射して、相変わらずナオの目はよく見えない。彼女は少しだけ俯き、頷いた。
「私は、いるわ」
「へぇぇぇぇ! どんな人? どんな人? カッコいい? 背は高い?」
 こちらも予想外の答えに、興味が次から次へと沸いて来て、アストリアーデの口から遠慮なく飛び出す。
 ナオは水筒の水を一口飲むと、少し遠くを見るようにして、再び口を開いた。
「素敵な人よ。年上なの。大切な人を守るためなら、危険も顧みない人」
「へぇー!」
 アストリアーデは、彼女の好きな人というのを思い浮かべてみる。
 情報が少なすぎるものの、何となく頼りになりそうな男性像が形作られ始めた。
(お父さん!?)
 それは固まって、何故か父の姿になる。アストリアーデから見れば、それほど頼りがいのある男性という印象ではなかったのだが。
 母もジェイムも――今、どうしているだろうか。
 思い出してしまうと、胸の辺りを重たい感情が雲のように覆うが、サリュートアと合流さえすれば、もう家に戻れる。
 こんな危険な目に遭ってまで旅を続けるなんてまっぴらだし、彼も無理は言わないだろう。
「私ね」
 ナオの続く言葉に、アストリアーデの顔と意識が、再びそちらへと向く。
「その人のためなら、何だって出来るわ」
「へぇー」
 アストリアーデは、気の抜けた言葉しか返せなかった。
 自分は今まで、そこまで思える人に出会ったことはない。
 何となく好きになって付き合い、何となく嫌になり、付き合いをやめてしまうのが常だった。
 いつか、自分もそんな風に人を好きになることがあるのだろうか。イメージしてみても、あまり実感は湧かなかった。
 しかし、そうやって自らの恋の話も、まるで人事のように淡々と話す、いつも冷静なナオの中に、それだけの強い情熱が秘められているというのも驚きだった。
「さ、私の話はおしまい。……行きましょ」
「え? もう!?」
 立ち上がり、服についた汚れをぽんぽんと手で落とすナオを見上げ、アストリアーデは抗議の声を上げた。まだ手の中のパンは、半分ほど残っている。
「歩きながらだって食べられるでしょ」
 そんなに急がなくてもいいのに、という気持ちと、早く到着してゆっくり休みたいという気持ちが、アストリアーデの中でせめぎ合う。
 ナオは、もう少しで目的地に到着すると言っていた。
 そう、あともう少しだ。もう少し頑張れば、家に帰ることが出来る。
 自分を励まし、アストリアーデは大きく頷くと、勢いよく立ち上がった。
「アストリアーデちゃん」
 名を呼ばれ、そちらを見る。
 いつの間にか少し先の方まで進んでいたナオが、肩越しにこちらを見ていた。
「何?」
 何かを言われたような気がして、アストリアーデが尋ねると、ナオは首を小さく振り、また前を向いた。
「ううん。……行きましょう」
 そして、足早に歩き出す。
「あっ、待って!」
 アストリアーデも慌てて、彼女の後を追った。

「うわ、大きな家」
 ナオが到着したと言い、アストリアーデを振り返った時、目の前には大邸宅と呼ぶに相応しい建物があった。
 華美さはなく、歴史を感じさせる重厚な佇まいだ。
 ナオはその大きな門へと近づくと、鍵を開け、手で押す。門は重そうな音を立てながら、ゆっくりと開いていった。周囲には、門番のような者はいなかった。
 雑然とした草地の上を、二人は無言で歩く。これだけ大きな家なのに、人影を全く見かけないのは不思議な感じがした。
 もしかしたら、誰も住んでいないのだろうか。
 きょろきょろと周囲を見回していると、いつの間にかナオの背中が遠ざかっている。アストリアーデは、慌てて足を速めた。
 玄関の扉も、同じようにナオが鍵を開け、中へと入る。やはり、そこには誰もいない。
 だが、高級そうな調度品には、埃や蜘蛛の巣などはなく、綺麗だった。それは、少なくとも誰かが掃除をしているということだ。そのことに、少しホッとするものを感じる。
 繊細な彫刻が施された手すりのある階段を上り、そこから緩やかなカーブを描く廊下を通ってたどり着いた部屋には、細長いテーブルがあり、それを囲むように椅子が並べられていた。
 食堂のようにも見えるが、それには殺風景すぎる気もする。大きな窓からは、遠くに連なる山々が見えた。
「ちょっと、ここで待っててね」
 ナオはそう言うと、椅子の一つを引いた。アストリアーデは促されるまま、そこに座る。
 ずっと歩き詰めだったし、ちゃんとした椅子に座るのは久しぶりだった。力が抜けると同時に、疲れが急速に体を巡る。
 ナオは、何か用事があるのか、急いでいる様子で部屋を出て行った。
 アストリアーデは、明るい日が輝く窓の外を見、大きく息をついた。

 ◇ ◇ ◇

「ナオからの信号だ!」
 オーファの持つ『リーダー』はほの白く光り、地図を映し出していた。
 その上の一箇所で、赤い光が点滅している。
 静かだった基地内は一気に慌しくなり、熱気を帯びてきた。
「準備は出来ているな! すぐにでも向かうぞ!」
 彼は落ち着いているけれどもよく通る声で、仲間へと指示を出す。
 サリュートアはそれを眺めながら、思いを巡らせる。

 ◇ ◇ ◇

 どのくらい、時間が経っただろうか。
 ここに来るまでのことや、サリュートアと一緒に旅したこと――そして、父や母、ジェイム、学校の友人たちとのこと、また家に戻っていつもの生活に戻ったら、どんなことを話そうか、何をしようか、そもそも、旅のことをどう言い訳しようか――そんなことを、椅子に座ったまま、取りとめもなく思い浮かべていた。
 そわそわしたり、うろうろしたりすることは、まるでナオを疑うようで――いや、不安が実現してしまいそうで怖かった。
 それでも、視線は背後のドアの方へと向かう。あのドアをナオは閉め、暫くしてから、彼女の足音は遠ざかっていった。
 顔の位置を元に戻し、アストリアーデはゆっくりと、とてもゆっくりと腰を上げ、窓の外を見る。
 空は赤々と燃え上がり、遠くに見える山々を覆っている。
 もう、日が落ちようとしていた。

『アストリアーデちゃん』

 森の中、木々の隙間から差す光に染められ、まだらになったナオの背中が、脳裏に浮かぶ。

『……ごめんね』

 何故、今まで気づかなかったのだろう。
 そう。確かにあの時、彼女はそう言った。
 記憶が意識の表面へと浮上してくると、今度は交代だとでもいうかのように、頭の先から現実感が遠のき、鼻の奥が鈍く痺れた。
 そしてただ無感動に、目の端から涙が零れ落ちてくる。
 生ぬるい雫が、頬を、顎を舐めるようにして伝って行った。手で拭っても、拭っても、それは消えず、さらに勢いを増す。
 足の感覚がなくなり、膝が震えていたが、それでも立っていたのは、役に立ちもしないプライドのせいかもしれない。
 もう、認めないわけにはいかなかった。
 また――騙されたのだ。

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