夜雨

 夜半過ぎて、雨足は強くなった。被ったフード越しに、雨音が大きく響く。
 ぬかるんだ道を、十数頭を数える馬が走る。ランプの明かりだけが、頼りない導き手となっていた。
 サリュートアも馬を与えられ、任事官たちと一緒に駆けたが、どうしても洗練された技術を持つ彼らには遅れを取ってしまう。
 天気の良い日中でもそうなるだろうに、あまりに視界も足場も悪すぎた。乗馬は何度もしているが、こんな状況で馬を走らせた経験は、サリュートアには一度もない。
 任事官たちには、オーファが妹のことを説明してくれていたから、表立って文句を言う者はいなかったが、視線や態度で露骨に示して来る者もいたし、肩身は狭かった。

『覚悟は、あるよ』

 サリュートアは、オーファにそう答えを返していた。
 人を殺すつもりなどはない。ただ、そう言わないと連れて行ってはもらえないと思った。
 数々の事件を乗り越えてきた任事官たちと一緒なのだ。そうそう危険なことはないだろうし、させないだろう。オーファの言った言葉は、それだけの覚悟を持って臨めという戒めのようなものだ。
 もちろん、サリュートアは気を抜くつもりなどなかった。
 けれども、少し進んではサリュートアだけが遅れ、皆がそれを待つということが何度も繰り返されると、流石に空気がピリピリとしたものに変わり始める。皆の視線が痛いほど突き刺さり、ため息がよりはっきりと聞こえるようにもなる。
 これならば、面と向かって文句を言われた方がマシだ。
 一旦休憩しようということになり、雨を避けて木陰で休みながらそう思った時、任事官たちの中でも比較的若い男が、やおら近づいてきて、サリュートアに向かって言葉を放った。
「おめーさ、妹助けたいのかなんかしんねーけど、トロトロ走んなよバーカ!」
 確か、仲間にバートと呼ばれていただろうか。
 金髪のツンツン頭。口もとには無精ひげ。幼い頃読んだ絵本に、この男の髪の毛のような針を生やしたネズミがいたような気がする。
 言葉の調子が軽すぎて、怒られているのかバカにされているのか良くわからなかった。
「すみません」
 けれども、謝りはする。迷惑をかけているという自覚はあったからだ。
 再び顔を上げると、目が合う。バートは目を細め、ふん、と鼻を鳴らした。
「あと走る時な、力入りすぎ。緊張すんのはわかっけど、そーいうの、馬に伝わっから」
 そして彼は、木々に繋ぎ留められている馬たちを見やる。
「馬っつーのはな、走るための道具じゃねーんだよ。俺たちはお馬さんに乗せてもらってんの」
「そんなこと」
「わかってねーから、あーやってトロトロ走んだろ!」
 何も理解していないかのように言われることに流石にむっとして、サリュートアが言い返そうとすると、あっさりその言葉は封殺された。
 そして自分の言いたいことを言い切ったのか、バートはこちらに背中を向け、さっさと行ってしまう。サリュートアにくすぶる不満を示していた他の者も、いつの間にかいなくなっていた。
「出発だ!」
 オーファの声が雨越しに聞こえる。サリュートアも急いで自分の馬のところに行った。
 馬と目が合う。
 意外と、可愛い目をしているんだなと思った。

 ◇ ◇ ◇

 外がすっかり暗くなってもまだ、アストリアーデはぼんやりと外を見ていた。降る雨が、窓を強く叩く。
 その時、ドアのノブがガチャガチャと動かされる音がし、それから鍵が外れる音がした。
 アストリアーデは、思わず身を硬くする。
 けれども、逃げようとか、何とかしなくてはいけないとは思わなかった。ドアが開き、人が部屋を覗き込む気配がしてから、ようやくゆっくりとそちらを見る。
 そこには、少女が立っていた。
 アストリアーデと同じくらいの年頃だろうか。細身で、手足もほっそりと長い。フリルが多めの、見るからに高そうな服を着ている。
 『肌が透き通るように白い』という表現がこれほど似合う者を、アストリアーデはこれまで見たことがなかった。蒼く長い髪も、よりその白さを際立たせている。
 ぱっちりとした水色の瞳が、こちらをじっと見た。
「……見たことない人が、ここに入っていくのが見えたから」
 少女は、恐る恐るといった調子で、そう言葉を口にした。やや掠れた声が、語尾に行くほど小さくなって行く。
 アストリアーデは何も答えず、少女をぼんやりと眺めていた。すると少女は落ち着かない様子になり、視線をあちこちへと彷徨わせる。
 そうしながら、何かを言おうと言葉を探しているようだった。けれども何も見つからないのか、少しの時間が経ち、少女の顔に焦りの色が浮かび始める。
 やがて、その視線が再びアストリアーデの上で止まり、少女は驚いたように目を瞬かせた。
「泣いてるの?」
 言われて、アストリアーデも自分が泣いていたことを思い出したが、それを見られたからといって、もうどうでも良いという気になっていた。
「あんた、誰?」
 ようやく抑揚のない声が、口から滑り出る。
「わたし……? わたしは、ウィリスよ」
「そう」
 少女の名前に興味はなかったが、人と話をすることで、少し投げやりな気持ちが遠ざかったようだった。
 当たり前とも思える疑問が浮かび、それを少女に放ってみる。
「ここは、どこなの?」
「わたしの家よ」
 そんなの当たり前じゃない、とでも言うかのようだった。
 少し迷ったが、アストリアーデはここにいる理由を素直に話してみることにする。
「あたし、ここに無理矢理連れてこられたの。ナオってやつに」
「さっき、一緒にいた人?」
 どこかから様子を窺っていたのだろうか。だが、どうやら少女は、ナオのことを知らないらしい。
 その表情は、嘘をついているようには見えなかった。
「……でもきっと、あなたはわたしのお友達なんだわ」
 続けて言った少女に、アストリアーデは言葉を失った。
 なぜ、そうなるのだろう。無理矢理連れて来られたと言っているのに。
「この前お父さまにお会いした時、多分お友達が屋敷に来るよっておっしゃってたの。それは、きっとあなたのことだと思う」
 そう嬉しそうに、はにかむような笑顔を見せる少女に、気味の悪いものを感じながら、それでもアストリアーデは気力を奮い起こし、訴える。
「あたしは無理矢理ここに連れてこられたのよ!? あたし以外にも、何人も誘拐されて、どっかの屋敷に連れて行かれたの! それってあんたの父親が犯人の一味ってことなんじゃないの!?」
 言っているうちに、目の前の変な少女や今までのことに、どんどん腹が立ってきて、語気が荒くなっていった。
 そんなアストリアーデの姿に怯えるように少女は身を縮め、小さな声で、けれども確信を持って言う。
「お父さまは、そんなことをなさる方ではないわ」
 ざわっと体中が逆立ったような気がし、アストリアーデの頭の中が真っ白になる。
「どいて!」
 少女を押しのけ、ドアから勢いよく飛び出すと、アストリアーデは周囲を見回し、記憶をたどって走り出す。
「あっ、待って!」
 少女の声が後ろから聞こえるが、振り向くことはしなかった。
 足が疲れきっていて、上手く動いてくれない。柔らかな絨毯が足に纏わりつくかのようだった。
 やけに廊下が長く感じる。
 緩やかなカーブを描く道をたどっている時、向かい側から老女が一人、歩いてきた。顔には深いしわが刻まれ、頭も真っ白だったが、背筋は真っ直ぐに伸びている。
 老女は、走るアストリアーデの姿を認めると、道をふさぐように、両手を大きく広げた。
 そのまま突き飛ばしてでも進むことも考えたが、それは流石に気が引けた。やや距離をおいて立ち止まったアストリアーデを見て、老女は優しげに微笑む。
 彼女ならば、先ほどの少女よりも話が通じるかもしれない。
 そう思い、アストリアーデは老女に必死で訴えかけた。
「そこをどいて! あたし家に帰りたいの!」
 それを聞き、老女は困ったような顔をすると、ただゆっくりと首を横に振る。
 どうして、何も言ってくれないのだろう。
 何かねっとりと重い感情が、胸の奥でぼこぼこと音を立て、首をもたげた。背中に汗が滲み、少しひやりとする。
 後ろから、荒い息が聞こえて来た。次いで、少女の声が届く。
「マーサは、口がきけないのよ」
 その瞬間、先ほどの感情がぶわっと何倍にも膨れ上がり、そして、一気に弾け飛んだ。
 リアも、ナオも、皆で囚われた屋敷も、ここも、老女も、少女も、そして、少女の父親も。
 世界の全てが悪意となって自分を陥れようとしているかのように思えて、ただ怖かった。
 こんな場所には、もう一時たりとも居たくない。
 アストリアーデは老女の脇をすり抜けると、周囲には目もくれず、ただ足を動かした。
 前へ、前へ。――大丈夫、玄関までの道は覚えている。
「待って! そんなに走ったら、危ないわ!」
 少女の声が、背後から追いかけてくる。だけど、そんなものは知らない。
 足を限界まで動かす。もっと速く、速く――速く!
「あっ」
 思わず、声を上げていた。体のバランスが急速に失われる。
 手すりに施された花の彫刻が、逆さまに見えた。
 そしてアストリアーデの体は、赤い赤い絨毯の上を転がり落ちていく。

 ◇ ◇ ◇

 アストリアーデは、今どうしているだろう。
 サリュートアは、妹のことをぼんやりと思った。
 まだ数日しか離れていないというのに、まるでずっと会っていないかのような感じがする。
 だが、彼女は結構肝が据わったところがあるから、きっと大丈夫だろう。任事官もそばについていることだし、問題はないはずだ。
 それでも、不安はざわざわと、静かになる様子を見せない。
 それを一生懸命抑え込んでいた時、オーファの停止の合図が示された。
 サリュートアはそれを馬へと伝える。馬は鼻を鳴らし、速度を緩めていった。
 もうすぐだ。
 すぐに、助けに行く。

「バート、お前はギルと組め」
 作戦を決行する直前になり、オーファはバートにそう指示を出した。
 覚悟はしていたのだろう。バートは「へーい」と軽い言葉を返したのみだ。
 そして彼はサリュートアの方を向くと、舌を小さく鳴らす。
「何だよおめー、その不満そうなツラは」
「……別に」
 顔に出したつもりはない。だが、仕方ないとはいえ、正直、嫌だった。
 あれからもバートには、事あるごとに絡まれた。
 あまり認めたくはないが、彼のアドバイスは実際に役に立ち、馬も以前よりずっと速く走るようになった。そのおかげで、皆からも遅れることはあまりなくなった。
 けれどもバートは、不満に思うことをいちいち気遣いもなく、ストレートに言ってくる。口も悪いし、言い返せば子供のようにムキになる。付き合いにくいことこの上ない。
 オーファもそれを見ても何も言わず、助けを求めるような視線を向けてもニヤニヤ笑っているし、サリュートアに味方してくれる者は誰もいなかった。
 その代わり、不満を態度や視線でぶつけてくる者もいなくなったが。
 だがオーファは指揮官という立場ではあるし、お荷物であるサリュートアを抱えておくわけにはいかないのだろう。他の者には相手にもされていないし、唯一構ってくれるバートが適任というわけだ。
 自分が厄介者だという自覚はある、無理を言ってついてきたのだから、そのくらいは我慢するしかない。
「宜しくお願いします」
 サリュートアは殊勝にもそう言って、頭を下げる。

 作戦開始と共に、任事官たちは速やかに散った。
 屋敷のことを詳しく調べる時間はなかったが、事前に入り口や窓などのある場所の確認はした。
 オーファは玄関から堂々と訪ね、主に取り次いでくれるよう、執事らしき者と交渉している。
 その間に数人の任事官は、高い塀を越えて屋敷の庭へと侵入していた。
 サリュートアとバートは塀の外で待機し、周囲を油断なく窺っている。
 同じ役目を与えられている者は他にもいたから、サリュートアたちだけが外にいるわけではないが、一番安全な持ち場であることは確かだ。
 しばらく、雨の音だけが大きく聞こえていた。それでも、緊張した空気は辺りに漂っている。
 やがて、怒鳴り声や銃声が聞こえ始めた。交渉が決裂したのだろうか。だが、その音が遠いため、サリュートアには戦いが始まったという実感はあまり湧かなかった。
 屋敷の外は静かで、人が動く気配もない。そうなると緊張も続かず、手持ち無沙汰な感じもしてくる。自分が動けないというのも、どうにももどかしい。
「ギル、ここを動くなよ」
 突然バートが声を出したので、サリュートアの心臓が跳ね上がった。
 呼吸をし、顔を向けると、もうすでにバートはこちらに背中を向けていた。何か不審なものでも見つけたのだろうか。
 サリュートアは少し身を硬くし、左右に視線を何度も向ける。
 どのくらいそうしていただろうか。
 道の先に、何かが光るのが見えた。それは、バートが向かったのとは逆の方向だ。
 首を巡らせる。バートが戻ってくる様子はまだない。
 動くべきではない。それは理解していた。
 大声でバートを呼ぼうか、とも思う。しかし、それで作戦を台無しにしてしまったらどうしようもない。
 ならば、このまま待つのか。
 だが、バートがいつ戻って来るのかもわからない。もしかしたら、戻って来られない状況にあるのかもしれない。考えたくはないが、そういうことだってあるだろう。
 そして――もしあの光が、アストリアーデと関係のあるものだったとしたら。
 確認しに行くだけだ。何かを見つけたら、また戻って来て報告すればいい。
 サリュートアはそう結論づけ、もう一度、バートが戻って来ていないかを確かめてから、静かにその場を離れた。
 慎重に、塀沿いに歩く。
 空は段々と白んできているが、雨雲が覆っていることもあり、まだまだ暗い。
(――!?)
 その時、サリュートアの目が塀の上に動くものを捉えた。咄嗟の判断で、壁にぴったり張り付くようにして身を隠す。
 人影だった。それは、塀の上から、地面へと降り立つ。
 サリュートアの全身に、衝撃が走った。
 纏わりつく水滴を、鬱陶しそうに振り落としているその人物は――リアだった。
 赤い瞳が、こちらへと向けられる。
 サリュートアが声を発するより早く、リアが口を開いた。
「あら。誰かと思ったら、あの時の坊やじゃない」
 雨音は相変わらず、ざあざあとうるさい。
「動くな!」
 サリュートアは腰に帯びた剣を引き抜き、リアへと向けた。そのままじりじりと間合いを詰める。
 憎しみと怒りがふつふつと体内を燃やし、瞳に集められた。
 こいつのせいで、こんなことになった。
「坊やのせいで、こんな面倒なことになったってことか」
 だが、思うところは同じようだった。リアも不機嫌そうに顔を歪める。そして腰へと手を伸ばした。
「あの時、殺しておけば良かった」
 彼女は銃口をこちらへと向け、定める。
「アストリアーデはどこだ!?」
 サリュートアの問いに、リアは心外だとでも言うように声を漏らした。
「知らないよ、そんなの。あのナオとかいう女がどっかにやったんじゃない?」
「何だって!? ――どういうことだ!?」
 言っている意味がわからない。
 アストリアーデを連れ去ったのはリアで、ナオはその事件を解決するため潜入した任事官だ。
「さぁ? あたしの知ったこっちゃないね。それよりさ、見逃してくれない? あたし、これからもっといい所に移り住んで、のんびり暮らしたいの」
 リアの媚びるような声に、サリュートアの怒りはさらに沸き立った。そんなことを許すはずなどない。
「見逃したりするもんか!」
「そう。やっぱりダメか。――じゃあ、仕方ないね」
 その言葉を言い終わる前に、リアの手が動いた。
 飛んできたのは銃弾――ではなく、銀色のコインだった。
 サリュートアはコインを避けようとしたが、嫌な予感がし、さらに体を捻る。すると彼のいた場所を、短剣の切っ先が掠めた。
 リアは小さく舌打ちをすると、今度はもう片方の手に持った短剣を振るう。
 サリュートアは今度は背後へと跳び、距離を取ると、剣を振るった。それはリアの足を狙ったものだったが、難なくかわされる。
 そしてリアは、一気に間合いを詰め、サリュートアの懐へと飛び込んで来た。咄嗟に剣を構えるが、それは簡単に弾かれ、地面へと転がる。サリュートア自身もバランスを崩し、尻餅をついた。痛みに顔をしかめるが、じっとしている暇はない。すぐに横へと転がると、顔があった場所に短剣が突き立てられる。
 起き上がる余裕など与えてもらえなかった。雨でぬかるみ、波打つ地面を、サリュートアは泥だらけになりながら転がり、逃げ続けた。攻撃をかわすので精一杯で、声を出すことも出来ない。動きが止まれば、リアの短剣は確実にサリュートアの息の根を止めるだろう。
 サリュートアは、ただ本能のままに逃げていた。それが出来たのは、ジェイムに教えられた武術が、体に染み付いていたからでもあるだろう。
 だが、疲労は確実に動きを鈍らせ始める。止まない雨も、それを助長していた。
 けれどもそれは、リアの方でも同じだった。大体、普通の『坊や』は、こんなに見事に彼女の攻撃を避けたりしない。
 やがて。
 誰かがこちらに向かってくる気配に、先にサリュートアが気づいた。
 そして一瞬、そちらに気を取られてしまった。
 慌てて意識を戻した時には、リアの短剣は、もう目前に迫っていた。

 ――殺される。

 そう思った時、右手に硬いものが触れた。考えるよりも早く、体は自然に動いていた。
 くぐもった悲鳴が、空気を震わせる。
 気づけば――リアが地面に倒れていた。
 周囲に、水とも土とも違う質のにじみが広がっている。
 棒立ちになったサリュートアの右手には、先ほどリアに弾き落とされた剣が握られていた。
「ギル!」
 バートの声だった。でもそれよりも、自分自身の荒い息の方が大きくサリュートアの耳には届いていた。
 服には、べったりと血がついていた。手のひらにも。
 これだけ雨が降っているのに、それは簡単には流れなかった。
 地面に伏せているリアは、動かない。
 右手から力が抜け、泥の上に剣がぼちゃりと落ちた。

 ――人殺し。

 頭の中で、誰ともわからない声がした。

『人を殺す覚悟はあるか?』

 違う。――違うんだ。
 そんなつもりはなかったのに。
 これっぽっちも、なかった。

 ――人殺し!
 ――人殺し!!

 違う。――違う。
 自分を責める声は、どんどん大きく、強くなる。
 一歩、二歩――よろよろと足が動き、段々と早くなる。その場から早く逃げろと動く。
 空が光り、雷鳴が轟いた。
「うわぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!!」
 サリュートアは、いつの間にか駆け出していた。
「ギル!」
 バートの声が、遠くなる。
 違うんだ。本当に違う。
 違うからもう――ほっといてくれ。
 ほっといてくれ。
 息は荒く、体が重い。それでも、立ち止まれないと思った。
 どうしたら良いのかもわからず、ただサリュートアは闇雲に逃げる。
 フードが脱げ、雨が皮膚の表面を冷たく打つ。ぬかるみが、足もとをさらに覚束なくさせた。
「ギル! 待て! そっちへ行くな!」
 泥が嘲笑うかのように足を掬い、サリュートアの体が重力を失った。
 あれだけ強かった雨音は遠のき、やけに世界がゆっくりと動く。
 体が回転し、景色も回転し、バートの泣きそうな顔が逆さまに見えた。
 彼は何かを叫びながら、手をこちらへと伸ばしている。
 サリュートアは、その手が遠ざかっていくのを、ただ眺めていた。
 空が、見えた。
 さっきよりも明るくなった空は、ただ雨を吐き出していた。
 自分が落下しているのだと悟った時、感覚が一気に目覚め、恐怖が体内を駆け巡ったが、それも一瞬のことだった。
 目の前には、轟々と唸りうねる――水が。

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