軌道

「サリュートア――!?」
 苦悶の声とともに、アストリアーデは目覚めた。
 全身に汗をびっしょりとかいている。胸騒ぎが止まらない。
「サリュートア」
 サリュートアは、無事だろうか。
 幼い頃、これと似たような感覚に襲われたことがある。サリュートアと二人で、『鎮守の森』で遊んでいた時のことだ。
 怖くてたまらなくなり、姿の見えなくなったサリュートアを探してもらおうと、必死でジェイムに訴えかけたのを覚えている。
 その後サリュートアは、足を痛め、森の中で動けなかったところを発見された。
 ナオは彼が無事だと言っていたが、アストリアーデのことも騙したのだから、本当のことを言っているとは限らない。
 考えれば考えるほど、胸の中をかき回されているような嫌な感覚が強くなる。
 呼吸はまだ荒く、全身もべっとりと気持ち悪くて寒気がする。思わず両手をぎゅっと握り合わせた。
 ふと、視線を落とす。彼女は、ベッドに居た。
 清潔そうな真っ白なシーツがずれ、服が露になっている。ここに来た時と同じ服装だった。
 続いて周囲を見回す。誰も居ない。
 アストリアーデは体を軸にし、回転させると、足をそっとベッドから下ろした。
「っ――!?」
 だが、体重を乗せた途端、足首に激痛が走る。
 その痛みに体を曲げたアストリアーデは、そのまま床へと倒れこんだ。思わず掴んだサイドテーブルの上の水差しが倒れる。それは金属製だったため、水と共に大きな音が辺りに撒き散らされた。
 すると、部屋のドアが唐突に開く。
「大丈夫――!?」
 そして、慌てた様子でこちらへと駆け寄ってくる者がいた。
 あの少女だ。
 アストリアーデは思わず身を硬くし、近づく少女を腕で跳ね除けようとした。けれども不自然な体勢と、足の痛みで思うような動きにはならない。
 だが、少女はアストリアーデの剣幕に圧され、一歩後ずさる。
「あの……あなた、階段から落ちて、気を失ってしまったから、ここへ運んできたの。足、痛いのね?」
 アストリアーデは、答える代わりに少女を睨みつけた。少女はびくりと体を震わせたが、今度はその場を動かなかった。
 足首を動かすと、鋭い痛みが走る。でも、動かさなければどうということはなかった。捻っただけかもしれない。
 だが、しばらくの間は走って逃げることは難しいだろう。
「えっと、あのね、あなた今までずっと一日中、寝てたのよ。すごく疲れてたのね。……そうだ、お腹もすかない? 食事を用意したの。マーサのお料理、とっても美味しいのよ」
 少女は、部屋の中央に置かれている小さな丸テーブルに置かれた盆を指差して言う。ほんのりと湯気が立っているところから、まだ運ばれてからそんなに時間が経っていないのだろう。
 だが、食事などする気には到底なれない。こんなに胸が締め付けられるようで、苦しいのに。
 少女のわざとらしく明るい表情も、上ずって裏返っている声も、全てが癇にさわり、苛々した。
「出てって」
「えっ……?」
 倒れた水差しに目を向け、そちらへ近づこうとした少女は、驚いたように小さく声を上げる。
「出てけっていってるの! もうあたしに構わないで!」
 アストリアーデは再びそう言い放つと、もう少女の方は見ずにベッドへと戻り、頭からシーツを被った。
 そのまま、胎児のように体を丸める。
 少しの後、ドアが閉まる音が聞こえた。
 何故。
 何故、こんな目に遭わなければいけないのだろう。
 自分が、一体何をしたというのだろうか。
 そんな風に思うと、また涙が体の奥から湧き出し、溢れ出す。
 アストリアーデは、声を殺して、また泣いた。
 泣いても泣いても、まだ涙は枯れることはなく、ベッドを濡らして、頬に嫌な感触を残す。
 ぼんやりと視界を覆う白いシーツが、何故か母の着ていたワンピースを思い出させた。

『お母さん』

 ずっと前、母に尋ねてみたことがある。

『あたしの取り柄って何かな?』

 唐突なアストリアーデの質問に、母は不思議そうにこちらを見た。
 天気の良い春の日のことだった。中庭で母は、お気に入りのサラウェアのお茶を飲んでいた。

『えっとね、サリュートアは勉強が出来ていつも学校トップの成績だし、スポーツも何でもこなすし……あたしには何があるのかなって。――あっ、カワイイっていうのは今回なしね!』

 母はそれを聞いて、しばらくの間笑っていた。
 あまりにも笑い続けるので、流石に馬鹿にされている気がして、文句を言おうとした時だ。

『そうですね、沢山あるけれど……一番は、その明るさでしょうか』

 母は、タイミングを計っていたかのように笑うのをやめ、そう言った。
 あの母のことだから、実際そうだったのかもしれない。

『明るさ?』

 今度はアストリアーデが首をかしげて母を見る番だった。
 母はにっこりと微笑むと、アストリアーデの分もお茶を淹れ、手招きをした。

『アストリアーデ。あなたが居るだけで、その場に花が咲いたみたいにぱっと明るくなります。その前向きな明るさは、周囲の人も前向きにするんですよ』
『えー、そんなの面白くないよ。サリュートアにだって、「いつも君は能天気でいいね」とかバカにされるし』

 口を尖らせ、拗ねたようにお茶を飲むアストリアーデを見て、また母は穏やかに微笑んだ。
 そして、その碧い目がアストリアーデに真っ直ぐに向けられた。

『それは、素晴らしい才能ですよ。サリュートアもあなたの輝きに助けられていることに、まだ気づいていないだけです』

「無理だよ……こんな時に、どうやって前を向けっていうの?」
 アストリアーデは、掠れた声でそう呟く。
 その言葉に、母からの答えが返ってくることはなかった。

 ◇ ◇ ◇

 雨が止んでも、増水した川は凶暴ともいえる速さで流れていた。
 濁流が、少年の姿を浮かび上がらせることはない。
 オーファたちは地元の住民にも支援を頼み、捜索を行ったが、思わしい結果は得られなかった。

 昨夜、執事との押し問答に見切りをつけ、屋敷に強引に入ったまでは良かった。思ったほどの混乱や抵抗はなく、目的の部屋まで進むことが出来た。
 だが、屋敷には囚われているはずの女たちの姿はなく、彼女たちを誘導し、避難させるはずのナオの姿もなかった。
 その部屋が、『リポーター』が置かれていた部屋であることは間違いない。『リポーター』が消滅しても、『リーダー』へ送られた記録は残る。
 部屋は綺麗に片付けられ、誰かがいた痕跡は綺麗に消えていた。
 『リポーター』が日の光に反応するという性質上、設置されたのは夜であると考えるのが妥当だろう。さらに、昼間よりも人の目を盗んで行動しやすくなる。
 そして、目につくという危険を避けるならば、やはり昨日の夜だ。
 もし何らかの理由があり、ナオが女たちを連れ、ここを脱出したとして――だが、ギルから聞いた囚われの者はナオを含めて六人。それだけの人数で移動して、果たして誰にも見つからずに逃げることは可能だろうか。
 ナオはともかくとして、訓練もしていない一般人が成し遂げるには、難しいように思える。
 そして、ナオからの連絡はなく、彼女は姿も現さない。
 ならば、何かを勘づかれ、移動させられたのか。
 戸惑うオーファに向かって、玄関でやりあった執事は、不当捜査で訴えてやると勝ち誇った笑みを浮かべていた。

 ギルは、生きているだろうか。
 でこぼことした、人気があまりない道を歩きながら、オーファは少年の顔を思い浮かべる。
 もちろん、諦めてなどいない。
 だが、あの荒れ狂う流れを思い出すと、前向きな感情が雲に隠れるかのように翳った。
 今もバートを筆頭に捜索が続けられているが、現段階では、あまり詳細には出来そうもない。探す方まで流れに巻き込まれてしまっては意味がない。
 バートは青ざめた顔をしていた。彼は軽い風を装っているが、責任感の強い男だ。
 彼は理由を口にしなかったが、ギルにあからさまに絡んでいたのも、他の者のギルに対しての気持ちを代わりに発散させ、ギルへの不満が爆発したり、軋轢を大きくしないためのものだということはわかった。
 だから止めはしなかったし、それは少年を守ろうとする行為でもあったから、彼のことはバートに任せてみようと思ったのだ。
 担当であった以上、確かにバートには責任がある。
 だが指揮官はオーファであり、バート一人に任せることにしたのもまたそうだ。
 そして、連れ去られた女たちもまた、救出しなければいけない。こちらも、一刻を争う事態だ。今の状況で、ナオが何とかしてくれているなどと考えるのは間抜けすぎる。
 オーファたちは、あの屋敷の情報を急いで集めていた。土地や家から、関わっている人間まで。恐らく偽の情報だらけだろうが、必ずどこかに綻びはあるはずだ。
「――くそっ!」
 こみ上げてくる感情に、思わず声が口から漏れ出る。きつく握り締めた拳が、ぎりぎりと痛んだ。すれ違った若い男が体を強張らせ、こちらから視線を外すのが目の端に映る。
 空は憎々しいほどに澄み渡り、明るい日差しが降り注いでいた。
 あの時、雨が降っていなければ、また結果は違っただろうか。
 ――いや、そんなことを考えても仕方がない。あるのは今の結果だけだ。
 オーファはあの少年に、「死ぬ覚悟はあるか」とは聞かなかった。
 それは、自分たちが必ず守ると考えていたからだ。
 それすらも出来ず、助けてやると言った妹の行方もわからず、捜査も全く進展していない。
 あまりにも、不甲斐なかった。

 ◇ ◇ ◇

 また、夜が来た。
 アストリアーデは、すっかり冷めてしまった食事を見る。食事は、サイドテーブルへと移されていた。
 食べる気はあまり起きないが、体は空腹を訴えている。
 これじゃ、何だかカッコつかない。
 そんなことを思ったりもした。
 もし、最悪の場合――たとえば、近いうちに殺されるとして、もしくは、ずっとこのままこの家に閉じ込められたとして。
 想像するだけでも怖ろしかったが、でも、その瞬間まで、自分はずっとこのまま、周囲を恨んで、世界を呪って、泣いて過ごすのだろうか。
 正直、そちらの方が耐えられそうもなかった。
「……しょうがないか」
 アストリアーデはそう呟くと、サイドテーブルにある食器を引き寄せた。

 腹が満たされると、朦朧としていた頭も体もあたたかくなり、生気が戻ってきたように感じられた。
 先ほどまで全くなかった気力も湧いてくるから不思議だ。
 そういえば今まで、ここまで物を食べないという経験をしたことはなかったかもしれない。
 少し明るくなったように思える視界に、ドアが入った。
 アストリアーデは一人頷くと、慎重にベッドから降りる。
 周囲のものに掴まり、時には床を這うようにして移動して、やっとの思いでドアまでたどり着き、ドアノブに掴まる。回してみると、ドアは少し軋む音を立てながら開いた。
 痛めた足に負担をかけないよう気をつけながら、顔を傾け、廊下を除くと、黒いつぶらな瞳と目が合う。思わず声を上げそうになったが、それは何とか喉の奥に押しとどめた。
 ドアの脇には椅子が置かれ、老女と少女が座っていた。
 黒い瞳の主は、老女だった。彼女はこちらをじっと見ている。少女は彼女にもたれかかり、寝ているようだった。
「トイレに行きたいの」
 アストリアーデが小声でそう言うと、老女は微笑んで頷く。そして少女を起こさないように、静かに椅子から立ち上がると、アストリアーデの腕をそっと取り、導いた。
 アストリアーデは素直にそれに従い、今度は老女を支えにして足を進める。
 老女は歩幅を調整しながら、ゆっくりと歩いた。
 ふかふかとした絨毯の上を、老女に支えられて歩きながら、アストリアーデは可能な限り周囲を見回し、観察する。この機会に、出来るだけ屋敷の内部を知っておきたかった。
 すぐに逃げるつもりはない。何より、この足では満足に動けない。
 チャンスを待つつもりだった。そのためには情報も必要だ。情報収集が基本というのも、サリュートアが教えてくれたことだった。
 そして、今になってようやく気づいたことがあった。
 今まで混乱していたこともあっただろうし、また、あまりにも馴染んだ状況だったからということもあるかもしれない。
 この屋敷の天井も、妙に明るい。
 今も、そして最初に部屋を飛び出した時も、もう夜だというのに、廊下も明るかった。
 間違いなく、『遺産』だろう。
 『遺産』がどういう仕組みで動いているのか、どうしてあったりなかったりするのか、アストリアーデにはさっぱりわからない。
 けれどもわかっているのは、『普通の家』にはないということだ。
 アストリアーデたちの住む家は、恐らく『普通』という範疇には入らないだろう。
 では、ここはどうなのだろうか。
 でも――と、アストリアーデは思った。
 ナオは何かの目的があって、この家へとアストリアーデを連れてきたのだ。

「あの! もう大丈夫……なの?」
 トイレから出ると、すぐに声をかけられた。予感はしていたから驚かなかった。あの少女だ。
 といっても、単に興奮して老女に話しかける大きな声が、ドアの中まで聞こえてきたというだけだったが。
 老女は素早くアストリアーデのそばまで来ると、彼女の手を取り、体を支える。
 少女はどこか怯えたような目でこちらを見ていた。
 足はまだ痛くてまともに歩けないし、大体がこんなところに閉じ込められて大丈夫な訳などない。それとも、おかげさまで大丈夫よとでも言ってやれば良いのだろうか。
 そんな思考がとりとめもなく浮かび、アストリアーデが黙っていると、少女は一旦目を伏せ、唇を噛むようにしてから、また口を開いた。
「お名前! あなたのお名前、まだ聞いてない」
 アストリアーデは、少女の目をじっと見返す。
 揺れる感情を湛える水色の目の、でもその底で光るきらきらとした好奇心は、まるで幼い子供のようだった。
 アストリアーデは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。
 そして再び目を開くと、答えを口にした。
「アストリアーデ。――アストリアーデ・フローティア」

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