交差

「食べないの?」
 アストリアーデの呼びかけに、ウィリスははっと顔を上げる。
 まだ気まずく感じるところもあったのだが、重い空気が漂う中朝食を食べるのも嫌だったので、声をかける決心をした。
 彼女は昨日は席につくかつかないかのうちに朝食に手をつけていたのに、今日はただぼんやりと料理から立ち昇る湯気を眺めている。
「……うん、食べるよ」
 だが、彼女はそう言っただけで手は動かさない。
「アストリアーデちゃんは食べないの?」
 顔を上げ、そう言うウィリスに、アストリアーデは溜息をつく。
「一緒のテーブルについてるのに、あたしだけ先に食べづらいじゃん」
「そうなの? どうして?」
 ウィリスは驚いたように目を丸くする。アストリアーデが予想していた通りの反応だった。
 そういう習慣がなかったということは想像できた。きっとほとんどの食事は、一人で食べていたのだろうから。
 ずっと自分は周囲の大人から「食事は皆でするものだ」と言われてきて、それに疑問も持たず、そういうものだと思っていた。
 でももしウィリスと同じような環境で育ったなら、自分にとってそれは『当たり前』のことだったのだろうか。
 一旦そう思ってしまうと、「そんなの当たり前じゃん」とは口に出しづらかった。今までだってそういう機会はあったはずなのに、立ち止まって考えようともしなかった。
 昨日のことがあったからこそ、初めて考えたのだ。
 気がつけば、黙りこんでしまった彼女をウィリスが不安そうな表情で見つめている。アストリアーデは慌てて明るい声を出した。
「とにかく食べない? せっかくマーサが作ってくれたんだし、冷めたら美味しくなくなるよ?」
「うん」
 やはりその顔には笑みが戻らない。結局は気まずい雰囲気のままだ。
 そのまましばらく、食事をする音だけが響いた。
「……アストリアーデちゃんのお父さまって、どういう人?」
 唐突に聞かれ、アストリアーデは一瞬返事が出来なかった。
 だが、せっかくウィリスが話題を振って来たのだから、何とか返そうと考える。
「どう、って……ちょっと変わってるかなぁ」
「変わってるって?」
 さらに聞かれると、また言葉に詰まってしまう。それは漠然とした印象でもあって、細かく説明しようとすると、結構難しいものだ。記憶に残った父の姿が、次々と現れては消えた。
「うーん……それなりのお偉いさんで、皆に頼りにはされてるみたいだけど、どこか抜けてるし、よくボーっとしてるし」
 何とか言葉を搾り出したものの、少し自分の感じていることとは違うような気もする。
 しかし、それを聞いて少し考えていたウィリスは納得したようで、次の質問に移った。
「じゃあ、お母さまは?」
 そう来るのは自然だろう。母のことを聞くのに、ウィリスは抵抗がないようだった。ただ疑問に思うことを聞いているという印象だ。
 だからアストリアーデも、気にせずに素直に答えることにした。
「もっと変わってる。頭はいいけど趣味が変装と演技で、部屋もすぐぐちゃぐちゃにするし、突然良くわからないこと言い出すし」
 母の悪戯っ子のような笑みが思い出される。そういえば、父の代からだという『ポーちゃん』の謎もまだ解き明かされてはいない。
 今度の『変わっている』の方が上手く説明できたような気がした。
「他には? マーサみたいな人もいた?」
 そんなことを思っている間にも、ウィリスの質問は続く。アストリアーデの脳裏に、今度は皺だらけの優しい笑顔が浮かぶ。
「ジェイムっていう人がいたよ。お祖父ちゃんじゃないけど、あたしたちにとってはそんな感じの人だった。時々口うるさいし、頭も固いけど、でも優しい」
「あたしたちって?」
 つい口から出た言葉を、ウィリスはしっかりと拾い上げた。
 二人は何をするにもいつも一緒だったから、ついそういう言い方をしてしまう。
 どう答えて良いものか少し迷ったが、隠しても仕方がないから話すことにした。
「双子の兄弟がいるの。サリュートアっていう。今は……はぐれちゃった」
 最後だけ、口ごもるようにして言った。
 いつもの澄ました顔や、笑顔や、怒った顔や、言われた言葉、一緒に体験した出来事……沢山のことが一気に頭に流れ込んでくる。そして、喜びも、後悔も。
 ウィリスの質問はぱたりと止み、それから彼女も何かを考え始めたようだった。時に視線を彷徨わせ、唇を動かし、溜息をつき、指を擦り合わせる。
「……わたし、おかしいんだと思うの」
 次に彼女が口にしたのは、そんな言葉だった。
「だから、それは悪かったって」
 アストリアーデは責められたような気持ちになり、少し苛立ち紛れに返す。けれども、ウィリスはゆっくりと首を振った。
「ううん、でも、知らないことがいっぱいあるわ。わたしももっといろいろなことを知りたい。知って、おかしくなくなって」
 そして、ウィリスはアストリアーデに真っ直ぐ目を向けた。
「アストリアーデちゃんと、もっと仲良くなりたい」

 ◇ ◇ ◇

 またドアが開く音を聞き、サリュートアは今度も寝たふりをする。以前と同じ足音が、ベッドへと近づいてくる。
「調子はどう? 体は痛くない?」
 そしてあまり抑揚のない、静かな声が尋ねて来た。サリュートアの心臓は跳ね上がり、息が詰まる。
 ばれないように注意を払っていたつもりだったが、どうやら無駄だったらしい。
 そう思ったサリュートアは、少し逡巡した後、腹を決めた。
「……そんなに悪くないよ」
 強がりではあったが、そのくらいはいいだろう。
 久々に出した声は涸れ、裏返って不明瞭になる。喉の奥がざらざらとした。
「そう、それは良かった。……やっぱり起きてたんだ」
 少女の言葉にまたどきりとし、今度は体が思わず動く。少し痛みが走ったが、それは我慢した。鎌をかけられたという事実にじわじわと体が熱くなり、文句の一つも言ってやりたかったが、声も上手く出せないし、そうする気力もなかった。
 代わりに、そのまま体を起こそうとしてみる。
「ぐっ……」
 先程よりも大きな痛みが走り、くぐもった声が上がったが、動けないということはなかった。少女は急いでこちらへと近寄り、サリュートアの背中を支える。彼女は枕を背中とベッドの隙間に差し入れ、体を起こしやすいようにしてくれた。
「お腹すいてない? きみ、ずっと寝てたから」
 そう言われると急激に腹が減ってくるようで、内側からの軋みに、サリュートアは頷く。少女の黒い瞳と目が合い、慌てて視線を逸らした。
 だが彼女は、そんなことは気にも留めずに、さっさと部屋を出て行く。
 サリュートアはその後姿をぼんやりと見送り、そして改めて自分の格好を見た。
 見たことのない男物の服を着ていた。サイズは少し大きい。露出した肌には包帯が巻かれている。
 あの少女に着替えさせられたのだろうか。
 そう思うと、恥ずかしさで顔が火照った。

 ◇ ◇ ◇

「どうして、これとこれが組み合わさると『イーヴァ』になるのかしら?」
「ええ!? 知らないわよそんなこと。そういう――ルールなのよ、きっと」
「ふーん」
 ウィリスから何度目かの質問をされ、アストリアーデはもう面倒になってそう返事をする。
 あれからアストリアーデは、それならばまず字を覚えたらどうかと提案してみた。自分が知っていることを色々話すのも良いが、字を知っていればこれからもきっと役立つと考えてのことだった。
 マーサはあまり乗り気ではないようだったが、ウィリスが期待の目をじっと向け続けたので最後には折れ、せっかくならと彼女も一緒に勉強をすることとなった。
 教科書はイーヴァ・イーヴァの本、紙とペンはどこかからマーサが持って来てくれたので、それを使ってアストリアーデの『授業』が始まる。
 彼女自身、勉強も好きではないし、成績もお世辞にも良いとはいえない。だが、字を教えるくらいなら簡単だろう。
 そう考えていたのだが――。
「どうして、こっちの点がこっちに移動すると、違う字になるの?」
「それはそういう形って決まってるの!」
「どうして、この字の次にこの字が来ると、読み方が変わるの?」
「だから、そういう風に決まってるんだって!」
 サリュートアだったら、もっときちんとした答えを返せるのかもしれないが、何も知らない状態の人に何かを教えるというのが、こんなにも難しいことだとは知らなかった。
 もっと早くに知っていたならば、先生に的外れな質問をわざとして、受けたくない授業を滅茶苦茶にしたりはしなかったのに、とアストリアーデは無責任なことを思う。
 ウィリスも頑張ってはいるものの、意欲も明らかに失せてきていて、アストリアーデとしても自分から提案したことを、このまま終わりにしてしまうのは悔しかった。
 そんな二人の様子を見兼ねたのか、マーサはイーヴァ・イーヴァの本をさっと手に取り、それを軽く振りながらアストリアーデに微笑んでみせる。
「え?」
 意味がわからず尋ねると、今度は彼女は口をパクパクと動かしながら、体も左右に動かした。
「ああ、節をつけて読めってこと?」
 マーサはそれを聞き、にっこりと頷く。アストリアーデは少し考えてから、マーサに向かって頷きを返した。
「そうだね。丸暗記するなら、それでも一緒か」
 そちらの方が覚えやすそうだし、何より楽しそうだ。ただ字を書くだけの勉強よりもずっといい。
 そう思い、アストリアーデはウィリスに向き直ると、やや改まった態度で言う。
「ちょっと、勉強のやり方を変えます」
「どういうこと?」
「今からやって見せるから待ってて」
 アストリアーデはひとつ大きく呼吸をし、それから歌い始める。一度マーサの前で歌ってみせたから、それほど緊張はしなかった。
 最初は困惑していたウィリスの表情は、楽しげな歌に見る間に明るくなり、瞳は輝き出した。
 歌にあわせて嬉しそうに手を叩き、やがて彼女も立ち上がると、一緒になって歌い出す。聞こえるまま歌い、最初は怪しかったその内容も、段々とらしくなってくる。
 自信がついてきて、明瞭に歌われ始めたウィリスの歌は、驚くほど上手かった。アストリアーデがわざわざ歌って手本を見せるのが恥ずかしくなるほどだ。美しい声で、まるで水を得た魚のように生き生きとした表情で歌う。もう質問をすることもなくなり、ただ音符を読むように文字を歌に変え、あっという間に詩を覚えて行く。
 アストリアーデも節を覚えていないものは、ウィリスと一緒に作って歌った。
 まずどんな物語なのかをアストリアーデが話し、それからこっちの音の方が良いとか、もっと速く歌った方が良いとか、そうやって議論しながら新しい歌を作り上げて行くのは、面白い作業だった。
 実際イーヴァ・イーヴァには特定の作曲者というのはいないし、様々な歌い方が伝わっている。
 マーサも、彼女が覚えている節とは全く違うものになっても喜んでくれた。二人が揉めた時には、どちらが良いかをマーサが決めた。
 静かだった屋敷に、歌声が流れていく。
 囚われの身ということを忘れてしまうくらい、アストリアーデもただそれに没頭し、楽しんだ。

 ◇ ◇ ◇

 目の前に、湯気の立つカップが差し出される。
 サリュートアは躊躇いがちに手を伸ばし、それを受け取った。カップを落としてしまうようなことはなく、きちんと握っている感覚もわかるし、手のひらに温かさも伝わってくる。中にはスープが入っていた。
 少女の方に視線を向けると、彼女は大丈夫とでもいうように、小さく頷く。
 ここまで来て警戒しても仕方がないだろう。起き出した腹の虫は暴れ始めているし、食べなければ、いずれは飢え死にするしかない。
 サリュートアはカップをゆっくりと口に近づけてみる。とても良い匂いがした。唇に触れたスープは温かく、熱すぎるということはなかった。唇を少し開いてスープを流し込むと、多少口内に刺激を感じはしたが、旨みと温かみがじわりと広がる感覚に、それも次第に薄れていく。
 スープは喉を通り、体へと染み渡っていった。生きているという実感が、また強さを増す。
「回復が随分早いんだね。もう動けて、食べられるようになるなんて」
 その様子を見て、少女が言った。
「あ……」
 サリュートアはカップを下ろすと少しだけ声を出してみる。それほどの問題はなさそうだった。
「そんなに、酷かった?」
 ゆっくりと紡ぎ出した言葉に、少女はまた頷く。
「そうだね。命に別状はないとは思ったけど、暫くは身動き出来ないかと思ってた」
 サリュートアは彼女の姿を改めて見た。
 自分よりは少し年上だろうか。髪も短く、着ている服も地味で飾り気がない。口調も、男のようだというのは少し違うかもしれないが、随分とさばさばとしていた。
「そういうの……詳しいの?」
 視線を落とせば見える包帯は、実に綺麗に巻かれている。
「わたしの父さんは、医者だったからね」
 少女は立ち上がって静かに窓に近づき、外に視線を移す。もう大分暗くなって来ているようだった。
「ここの近くに川が流れていてね、そこできみを見つけたんだ」
 彼女はそう言うとこちらを振り返る。
 サリュートアの脳裏に、また轟々と唸る水の映像が閃き、厭らしく踊り始めた。
「あとは一人で飲めるね?」
 少女の声に我に返り、サリュートアは慌てて小さく頷く。彼女は普段、あまり笑ったりしないのだろうと思った。
「そう。水も、ここにあるから」
 彼女はサイドテーブルを動かし、より水差しに手が届きやすい位置へと移動させる。
「あの……ありがとう」
 サリュートアはそう言って顎を少し下げた。まだ大きく体を動かすのはきつい。
 こうして彼女が助けてくれなければ、生きてはいなかっただろう。自分の身を守ることばかり考えてしまったのが恥ずかしかった。
「いや、いいんだ。早く元気になって」
 彼女は首を振り、ベッドから離れると、ドアの方へと向かいながら言った。
「そして、ここから出てって欲しい」
 ドアが閉まり、彼女が姿を消すのを、サリュートアはただ見送ることしか出来なかった。

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