真実

「こちらの記録には、特に何も残っておりませんなぁ」
 ダウルと名乗った恰幅の良い任事官は、資料に一通り目を通すと、灰色の瞳をこちらへと向けた。
 イシュケナの任事所はこじんまりとしていて、働いている者も数人しかいない。
 オーファとバートはあの屋敷からここまでの道のりをナオがどのように辿ってきたかを想像しながら進んできたのだが、特に目ぼしいものを見つけることは出来なかった。
 そもそもナオが辿った道とは全く異なっていたかもしれないし、日数も経っている。その間に痕跡を消すことだって可能だろう。彼女は、任事官が何を見るのかを詳細に知っている。
「そうですか」
 オーファは少し考えてから、ダウルに尋ねる。
「では、個人的に気になったことなどは?」
 彼はのんびりと考えてから、首を小さく傾げ「特には思い当たりませんなぁ」と言い、それから後ろにいた若い任事官にも聞いてみる。しかし彼は書類に目を向けたまま、無言で首を振った。
「何せ、長閑な所ですから。私らの仕事も、ご近所同士の喧嘩の仲裁だの、やれヤギが逃げたから探してくれだの、そんなもんばかりですよ」
 そう言って笑うダウルを、二人は複雑な表情で見る。
「ナオ・ルインセムという名前に心当たりはありますか?」
「さぁ……覚えがないですなぁ」
「そうですか」
 念のため聞いてみたことだったが、予想通りの答えが返ってくる。
 仮に彼女がこの場所に縁があったとしても、それをわからせるようなことはしないだろう。
「せっかく来ていただいたのにお役に立てず、すみませんな」
「いえ、こちらこそ、邪魔立てして申し訳ない」
 二人は頭を下げると、任事所を後にした。

「……ま、何かあったとしても、何もなけりゃ気づかないでしょうね」
 バートが一見矛盾したようなことを口にする。
「そうだな。もし捕らえられた女たちがここへ運ばれていたとしても、元々馬車の出入りが同じようなものであれば、誰も気づかないだろう。いずれにしても、この周辺で犠牲者は出ていないようだ」
 先ほどの記録も確認させてもらったが、今回の事件と関連がありそうなものは見つけられなかった。
「連れて来るなら。ある程度の大きさがある場所は必要っすね。ここは土地が広い家も多いっすけど、あんまりオープンだとばれちゃいますし」
 首を巡らせ景色を見るバートの隣で、オーファは空を仰ぐ。空は、一雨来そうな様相を見せていた。
「もしくは、ここではないということだ」
 手がかりも証拠も何もなく、ただ屋敷の連中がエンデルファ特有の言い回しをしていたという、それだけの理由でここまでやって来た。
 リアの聞き間違いかもしれない。わざわざそういう言い回しをしたのかもしれない。ナオだって面接の際に嘘を言ったかもしれない。幾らでも突き崩せる部分はある。
 それでもオーファがここへと来たのは、何らかのきっかけでも見出せるのではないかと感じたからだ。
 オーファが考え込んでいるのを見て、バートは思わずといったように吹き出した。
「まだ行ったの、任事所だけじゃないっすか」
 いつになく弱気になっている自分自身に気づかされ、オーファも苦笑いを浮かべる。
「そうだな。まだ結論を出すには早すぎる」

 ◇ ◇ ◇

 あれから数日の間、何をして過ごしていたのか、アストリアーデはよく覚えていない。
 ウィリスには、会わせてもらえなかった。
 いや、強く言えばもしかしたら会わせてもらえたのかもしれない。でも、それはしなかった。
 マーサを困らせたくないという理由ではないということは、自分でもわかっている。
 ――怖かったからだ。
 ウィリスは今、眠っているのだろうか。それとも、起きているのだろうか。苦しんだり、泣いたりしているのだろうか。
 色々な彼女の姿がありありと描かれてはぐちゃぐちゃに混ざって、得体の知れない恐ろしい物へと変わっていく。
 その中に自分が飲み込まれていってしまいそうで、水面で息継ぎをするかのように顔を上げると、窓の外には雨が降っている。
 いつから降り出したのかはよくわからない。別にそんなことを知っていたって何にもならないことだ。
 アストリアーデは重たい頭を枕に埋めると、シーツを頭から被った。

『アストリアーデちゃんがいるもの。それだけで幸せだわ』

 ウィリスの微笑んだ顔が浮かぶ。それがとても眩しくて、思い出すと胸が痛くなる。
 最初は無理矢理ここに連れられて来て、それがとても辛く、耐えられないと思っていた。
 でもウィリスの純粋さや、マーサの優しさに触れて行くうちに、ここにいることが心地良く、楽しくなっていった。いずれ訪れる別れが惜しくて、足が治っても逃げ出すことすらしなかった。
 ここに来たばかりの時と、同じ行動をしている自分が酷く滑稽に思える。それでも頭も体も重くて、動くのが億劫だった。
 でも、あの時よりも早く、アストリアーデは戻ってくる。
 こんなことをしていて何になるのだろう。
 もしかしたら自分が思っているよりも、ウィリスの状態だって悪くないかもしれない。
 今までだって普通に遊んでいたのだし、彼女が目の前にいないのに、勝手に色々想像して悩んだって仕方がないことだ。
 きっと、大丈夫。
「よしっ!」
 アストリアーデは自分を励ますように声をあげ、勢いよく体を起こすと、ベッドから飛び降り、そして部屋を出た。

 ◇ ◇ ◇

「さぁ、ねぇ……」
 女はそう言って困ったように視線を逸らす。
 先ほどまで降っていた雨は止み、移動や聞き込みはしやすくなった。
「小さなことでも良いのですが、何か気づいたことはありませんでしたか?」
 オーファの言葉に、女はさらに困惑を強めた。
「馬車の数がいつもよりも多かったとか、知らないヤツを見かけたとか、何か声を聞いたとか……どうっすか?」
 隣で様子を見ていたバートも、少しでもヒントになることはないかと口を挟む。だが、良い反応は返ってこない。
「私も家事やらなんやらで忙しいしねぇ……ご近所さんとはお会いしたけれど、それもいつも通りだし」
「……そうですか。お忙しいところ申し訳ない。ご協力をありがとうございました」
 これ以上情報は得られそうにない。
 そう判断したオーファは、女に一礼すると、足早にその場を離れる。バートも彼女に礼を言い、後を追ってきた。
「さて、次はっと」
 バートはそう言ってあたりを見回す。
 豊かな緑が広がり、山も随分と近くに見える。一面のアジラの花畑や果樹園、牧場が広がる中に、家がぽつぽつとあるという様子だった。
 何か異変があれば目立つ場所ではあるだろう。だが、目立たないように行動しようと思えば、幾らでも出来るのかもしれない。
 オーファも周囲を眺め、人の姿を探した。
「おっ、あそこに誰かいますよ!」
 バートの上げた声に、そちらを向く。そこには野菜が一杯に入った籠を持ち、歩いている少年の姿があった。
 二人は急いでそちらへと向かう。
「すまない。少し時間を貰えないか」
「えー? また?」
 オーファが少年に声をかけ、通行証を見せると、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「また、とは?」
 その言葉が少し引っかかる。少年は大げさに溜息をついてから、答えを返した。
「昨日も人に道聞かれたからさ。野菜売りに行かなきゃいけないのに」
「それは申し訳ない」
 道をわざわざ尋ねるということは、この地に不案内な者だということだ。先ほどの婦人の話からしても、余所者がこの辺りをうろうろするというのは珍しいのかもしれない。
「……ま、仕方ないよ。でも何かあったの? こんな田舎町で事件なんて起きたことなかったのに」
「ちょっとした調べ物だ」
「ふーん」
 少年はいかにも信じていないという表情をしながら声を漏らす。
 オーファはバートにちらりと目配せをし、続けて少年に尋ねた。
「昨日道を尋ねたというのは、どんな人物だった?」
「うーん……フード被ってて、なんだかあやしい感じだったよ」
「男だろうか、女だろうか?」
「男の人だった」
「幾つぐらいに見えた?」
「えー? よくわかんないよ。……もっとちゃんと見とけばよかったなぁ」
「いや、気にしないでくれ」
 残念そうにしている少年に、オーファはまた別の質問をする。
「その人物がどこへ向かったか分かるか?」
「こんな感じの場所を知らない? って聞かれたから、思い当たる場所を答えたけど、その後のことは知らないよ」
「もう少し、詳しく聞かせてくれないか?」
 食い下がるオーファに、少年ははっきりと否定の意を表した。
「やだよ! もうそろそろ行かなきゃ。これ売れなかったら困るんだから! それともおじさんたちが全部買ってくれるの?」
 任事官の人は知らないかもしれないけど、物を売るのって大変なんだから、とぼやき、歩き出そうとする彼の前を遮るようにオーファは立つ。
 彼は反発の眼差しを向けてくる少年に向かって穏やかに言った。
「わかった。買おう」
「えっ?」
 信じられないといったように目を瞬かせる少年に、オーファはもう一度はっきりと告げた。
「俺がそれを全部買うから、話を聞かせてくれ」
「ほんとに!? わかった、いいよ!」
 気が変わらないうちにと思ったのか、少年は背中の籠をさっさとおろすと、中に敷かれていた薄い布で、野菜をそのまま包み込み、口を縛り始める。
「幾らだ?」
「五千リューゼだよ!」
 懐から財布を出して聞くオーファに、少年は嬉々として答えた。
「高くね?」
 横でぽつりと言ったバートを、オーファは手で制す。
 少年はバートを睨みつけると、改めて言葉を発した。
「……じゃあ、四千八百……四千六百リューゼ」
 その間もバートがじっと見ていたため、もごもごと口の中で価格が下がって行く。
 オーファは財布から金を出し、少年に握らせる。予想よりも多い額に、彼は顔を上げてオーファを見た。
「釣りは要らない。情報料だ」
「ありがとう!」
 結局最初の言い値が通った少年は、嬉しそうに札をポケットへと仕舞う。

「ええと……こっちに森があって、こういう風に壁があって、ここに大きな道がある家はないかって聞かれたんだ。中庭もあったって言ってたかな?」
 少年は近くに落ちていた木の枝を拾うと、地面に図を描き始める。中々解りやすい図だった。
「それで、無言屋敷じゃないかなって。ここらへんじゃ、中庭がありそうな立派な屋敷なんて数えるくらいしかないし、森と道の感じから、あそこかなって思ったから」
「無言屋敷?」
 オーファの言葉に、少年はこくりと頷く。
「普段人がいるのかいないのかわかんないし、住んでるおじさんも、お手伝い? のおばあさんも、たまに見かけたと思ってもなんにも喋んないし。女の子の幽霊が出るってウワサだってあるんだよ」
「で、その屋敷っつーのはどこにあるんだ?」
 口を挟んだバートに一瞬むっとした表情をしたものの、少年は気を取り直し、指を立てた右手を真っ直ぐに伸ばして、そちらの方向を見た。
「この道をずっと進むと」
 それから左手で、地面に描いた図を示す。
「この、大きな道にぶつかるから、そうしたら左に曲がれば正門のほうに出るよ」
「ありがとう。助かった」
 そう言って微笑み、野菜の包みを持って早速移動しようとしたオーファの横顔に、少年は興味深そうに声をかけた。
「ね、あの屋敷に何かあるの?」
「秘密だっつーの」
 だが、またもそこに割って入ったバートに向け、彼は思い切り舌を出す。
「ケチ! ――ま、いいや! ありがとう!」
 二人は少年と別れ、無言屋敷と呼ばれている家へと向かうことにする。
 何もきっかけが掴めなかった今までからすれば、大きな進歩だ。
「……んで」
 バートは溜息をつき、彼が持つことになった大きな包みを眺める。
「まずはこの野菜、どうしましょうかね?」

 ◇ ◇ ◇

「アストリアーデ……ちゃん?」
 ベッドに横たわったウィリスは、思っていたよりもずっと元気そうだった。彼女はアストリアーデの姿を認め、嬉しそうに微笑んで体を起こそうとする。
「無理しないで」
 止めようとしたが、彼女は大丈夫と首を振り、ベッドへと座った姿勢になった。マーサがすぐにこちらへとやって来て、枕をウィリスの背中とヘッドボードの間へ差し込む。
「別にそんなに大したことじゃないの。少し調子が悪いから、ゆっくりしてたほうがいいだけ」
「そうなんだ」
 眠そうには見えるが、特に苦しそうにしているわけでもないし、言葉もはっきりとしている。
 やはり自分が気を揉みすぎただけなのだと、アストリアーデは胸を撫で下ろした。
 きっと、本当に大したことはない。
「大げさなんだから。ビックリするでしょ」
 ほっとすると、そんな言葉も口をついて出てくる。
「うん、ごめんね」
 ウィリスもそう言って笑った。

 それからただ、二人は何気ない話をした。
 久しぶりの雨のことや、中庭の花のこと、マーサの料理のこと。
 何てことのない話題のはずなのに、言葉の一粒一粒が甘い菓子のように芳しく、それは時間の手をとって、あっという間に連れ去っていく。
「どうしたの?」
 急にウィリスの表情が曇ったように思えて、アストリアーデは彼女の顔を覗き込んだ。
 息が荒い。
 マーサが近寄ってきて、ウィリスの体を両手で支えた。
 何か手伝わなければと思ったのに、少しでも助けてあげなければと思ったのに、アストリアーデの体はちっとも動いてはくれなかった。
 呆然としている彼女の目の前で、マーサはてきぱきとウィリスの体をベッドへと横たえ、水で冷やした布で汗を拭いて、水差しで口に水を含ませる。
 ウィリスの腕をとったり、額に手のひらを当てたりしてから、彼女はこちらを向き、小さく頷いた。
「……だから、無理しないでって言ったのに」
 ようやく出せた声も、乾いて喉に張り付くようなものとなる。
 横たわったウィリスは、まだ少し呼吸を速めたまま、上気した頬をこちらへと向けた。
「でも、アストリアーデちゃんとお話ししたかったの……いつまでこうやっていられるか、わからないし」
「変なこと言わないで!」
 つい声を荒げたアストリアーデに、ウィリスは首を振る。
「それは、わたしが病気でもそうじゃなくても同じことよ。今日話した人と、明日また会えるかはわからないもの。……それに、アストリアーデちゃんは、いつかここを出て行っちゃうでしょ?」
「それは……」
 違うとは言えなかった。ずっとそのことを考えてきたからだ。
 揺れる瞳から視線を外し、ウィリスは天井をぼんやりと見上げる。
「……お父さま、元気にしてるかしら」
 それから静かに目を閉じると、もう一度、呟いた。
「お父さまに、会いたい……」

 ◇ ◇ ◇

「あれが、無言屋敷っすね」
 前方に見えてきた屋敷を指差し、バートが言う。
 その呼び名が表す通りに、辺りは奇妙に静まり返っていた。
 大量の野菜は、途中で見かけた食堂を訪ね、全部置いてきた。店の主人は明らかに迷惑そうな顔をしていたが、通行証を見せ、任務のためだと説明すると、渋々受け取ってくれた。
 申し訳なく思いはしたが、オーファたちが持ち歩くよりはよほど有効に使ってくれるだろう。

 まずは屋敷の塀伝いに歩き、周囲からわかることを探る。しかし、特に変わったところは見受けられない。
 結局のところ、中へと入ってみない訳にはいかないだろう。
 しかし、どのようにするか。
 ナオたちが消えたあの屋敷のことが思い出される。
 その時、動く影を目の端に捉え、オーファは身を低くした。すぐ近くに見えていた曲がり角の先を瞬時に確認し、体を回転させるようにして隠れると、影の方へと視線を向ける。バートもすぐに続いた。
 オーファたちが進んできた方向から、フードを目深に被った人物が歩いてきている。一瞬つけられていたのかという考えがよぎったが、恐らく反対側から屋敷を回ってきたのだろう。
「あれが、フードの男……いや」
 バートは何かを言いかけ口ごもる。オーファにも、彼が何を言いたいのか理解できた。
 確かにあの体格は、男だろう。しかし、大人のものではない。
 じり、と思わずバートが踏み込むと、それに気づいた人物は、こちらを見ずに唐突に走り出す。
「ちょっ――」
 慌てて二人も後を追う。
 体格はもちろんのこと、歩き方、身のこなし。
 任事官は、そういったことを観察する癖がついている。
 顔や姿は隠せても、長年の間に身体に染み付いたものは、一朝一夕には矯正できないからだ。
 暫く行動を共にした仲であれば、尚更そういったものは自然と目に入ってくる。
「ギル! 待ってくれ――!」
 フードの男はバートの声を聞くと急に足を止め、こちらを振り向いた。
 信じられないように見開かれた、その琥珀色の瞳。
 取り除かれたフードから現れた顔は、少し痩せただろうか。あの頃より伸びた銀の髪が、雲間から射す陽光に煌く。
「バートさん。――オーファさんも」
 笑みを零したサリュートアの言葉は、力強い抱擁に遮られた。

 ◇ ◇ ◇

 かすかな音を聞いた気がして、アストリアーデは目蓋を開く。
 シーツの皺が見える。ウィリスのベッドにもたれかかるようにして、いつの間にか眠っていたらしい。シーツはゆっくりと上下していて、安らかな寝息が聞こえた。
 アストリアーデは顔を静かに上げ、周囲に意識を巡らす。
 足音だ、と思った。
 マーサの足音ではない、もっと重い足音。硬い革靴が絨毯に刻み込まれて行く印象。
 もしかしたら。
 アストリアーデはもう一度ウィリスの方を確認し、音を立てないよう、細心の注意を払いながら歩き、外へと出る。

 部屋から出ると、音は先ほどよりもよく聞こえた。
 誰かが廊下を足早に歩いている。金属がぶつかるような音も聞こえた。
 その音を頼りに、アストリアーデは歩みを進める。

 ◇ ◇ ◇

「それ、マジなのか? ギル――っと、サリュートア」
 バートが目を丸くする。
「ギルのままでもいいよ。ああ、理由は言えないけど、妹はあそこにいる」
 無言屋敷が見える、けれども少し離れた場所で、三人はそちらを警戒しながら情報を交換する。日は傾き始め、辺りは茜色に染められる。
 もし再会できたら、何と言おうかと考えていた。沢山の迷惑をかけたと思ったからだ。
 でも、二人とも責めることは一切せずに、ただ、サリュートアの無事を喜び、歓迎してくれた。
「でも、どうしたらいいか迷ってたんだ。あの屋敷の二の舞になるかもしれない。俺が捕まったら、もうそこで終わりだから。だけど、二人が居てくれるから心強いよ」
 それに、空から一瞬見えたアストリアーデは拘束もされてはいなかったし、元気そうに見えた。
 それで楽観することは出来ないが、だから慌てて踏み込むよりも、まずは下調べをと思ったのだ。
「お前、何か変わったな」
 バートに真顔でそう言われ、サリュートアの表情は思わず綻ぶ。こうしたやり取りも何だか懐かしく、嬉しい。
「そうかな」
「ニヤニヤして気持ちわりーぞ、お前」
「そっちこそ」
 サリュートアに言い返され、バートはばつが悪そうに指先で頬をかく。
「しかし、ここの任事官に協力を仰ぐのも難しいだろうな。証拠があるわけでもない」
「そうだ。どうして、二人はここへ来たの?」
 オーファたちならば、いつかここを見つけるだろうと思ったのは確かだ。しかし、どういう経緯でここまで辿り着いたのか気にはなった。
「ああ、それはあのリアという――」
「あっ!」
 オーファがその名を口にしたのと同時に、バートが鋭く声を上げる。
「えっ……?」
 遅れて、サリュートアの口からも声が漏れた。
「そうだよ! リアは生きてるんだぜ! 今、ピンピンしてんだ!」
 両肩を手で掴み、前後に揺すられながら、サリュートアはその言葉をどこか遠くから聞こえてくるもののように感じていた。
 激しく打つ雨や、血溜まりの中倒れているリアや、手をこちらへと必死で伸ばすバートの姿が思い出される。
 ――自分は、人を殺してなどいなかった。
 その事実が体の力を一気に抜き取り、思わず体が崩れ落ちそうになる。
 いや――でも。
「教えてくれて、ありがとう。でも俺は、あの時逃げちゃいけなかった。……ごめんなさい、そのせいで、皆に迷惑をかけてしまった」
「気にするな」
 オーファの大きな手が、頭を優しく叩く。
「お前、マジ変わったよ。何があったんだ?」
 今度は額を小突かれ、サリュートアは苦笑いを浮かべる。
「また改めて話すよ」
 照れ臭さもあったが、今はそれどころではないということもある。彼は無言屋敷と呼ばれているらしい建物の方を見た。
「多分、妹は、すぐにどうこうなる状況じゃないと思う」
 安堵の気持ちと共に訪れたのは、覚悟だった。
 妹を助けるために、今度こそ向き合わなければならなくなるかもしれない。
「だが、出来る限り急ぐ必要があるだろう」
 オーファの言葉に、バートも頷いた。
「今度こそ、妹を助けてやるよ」
「そのためには、まずどうするかだな」
 オーファも言って、堅牢にめぐらされた塀の中の建物を見た。

 ◇ ◇ ◇

 そうして辿り着いたのは、あの中庭だった。
 アストリアーデはガラス扉をそっと押し開け、足を土の上へとおろすと、さらに慎重に歩みを進める。
 暗くなった中庭へと出るのは初めてのことだ。ウィリスと一緒に来るときは、いつも陽の光がここを照らしていた。その違いだけで、全く別の場所に来たかのような錯覚を覚える。
 柵に囲まれた、ウィリスの母の庭の方に、動く影が見えた。
 その影は、こちらへと気づくとゆっくりと向かってくる。
 四十代くらいだろうか。あごに髭を蓄えた、精悍な顔つきの男だった。手には大きなシャベルを持っている。
 誰なのかは、すぐにわかった。
「ウィリスに会いに行かないの? ずっとあなたのこと、待ってるんだよ」
 男は表情を変えずに、こちらを見ている。
「私は今、私に出来ることをやっているんだよ、お嬢さん」
 それはウィリスに会うことよりも、大切なことなのだろうか。彼女はずっと、父親に会いたいと願い、今もそう思っている。
 会えると嬉しそうにしていた顔。暗闇の中の寂しそうな背中。病床の中で呟いた言葉。
 ふと。
 耳障りな音が、アストリアーデの感覚に割り込んで来た。
 その音と、以前ここで感じた違和感が、すうと結びつく。
 男の肩越しに、ウィリスの母の庭を見る。そこに蠢くもの。
 虫だ。
 羽虫の数が、異様に多い。
 アストリアーデの視線は、次に男の持つシャベルへと向かった。
「何を、埋めたの……?」
 ウィリスの母の庭に。――ウィリスの庭を踏みにじって。
「……あの子はね、一度死んだんだ」
 男はそれには答えず、意味不明な言葉を返してきた。
「事故だった。打ち所が悪くてね。マーサはそのショックで、口がきけなくなった。彼女はずっと当家に仕えてくれていて、ウィリスのこともとても可愛がってくれていた。妻亡き後は、彼女は祖母の様にウィリスを見守ってくれた」
 男は、懐かしそうな目で遠くを見る。
「私はずっと『旧時代』の研究をしていた。そして見つけたんだ――ヨセミスフィアへの道を」
 ヨセミスフィア。聞いたことのない言葉だ。
「そしてそこで技術を提供してもらい、あの子を蘇らせた」
 荒唐無稽な話に、アストリアーデの理解は中々追いつかない。でも、彼女の思いが取り残されるのを気にしないまま、男の話は続く。
「だが、仮初めの命を維持し続けるには、犠牲が必要だった」
 犠牲。
 その言葉を引き金に、リアの顔が、ナオの顔が、そして、あの屋敷で一緒に食事をした皆の顔が浮かぶ。
 ――仮初めの命を維持するための代償。
「ただ私は、ウィリスに生きて、そばに居て欲しかった」
 男は落ち着いた声音で、遠い世界の物語を読み上げるかのように言葉を紡ぐ。
 全ては、ウィリスのために。彼女が、生きるために。
「何よ、それ……」
 溜息をつくように、言葉が口から飛び出した。それで何かの螺子が外れてしまったかのように、肩が震えだす。
 そんなのは違う。
 目の奥に熱さを感じ、視界がゆらゆらとぼやける。
 なんて自分勝手なんだろう。
「あの子がどんな気持ちで、食事が冷めるまで待ってたと思うの? 苦しい中どんな気持ちで、お父さまって呼んだと思ってるの!?」
 体の奥底から熱いものが、ぐらぐらと沸き立つかのように噴出してきて、体中を駆け巡る。
 胸が苦しくて、膝ががくがくして、声が震えた。
「そばに居て欲しい!? あんたはどこにも居ないのに!? あの子はあんたの人形じゃないのよ! 生きて、考えて、感じてるの!!!」
 こんなに怒りを感じたのは、初めてのことだった。
 体中を駆け巡った熱は、涙となった。嗚咽となった。衝動となった。
 男を睨みつける。頭は張るように痛くて、耳鳴りがした。
 だが、それだけの怒りをぶつけても、男は――微笑んでいた。
「ウィリスは、良い友達を持ったようだ」
 曙光を見たかのようなその表情に、怒りは次第に戸惑いへと変化していく。 
「貴女が、協力してくれるなら」
 そしてアストリアーデは、男の真意を、そしてナオが自分をここへと連れて来た理由を悟った。
「……あたしの、血が必要なのね?」
 アストリアーデが、受け継いできたもの。
「そう、貴女ならば、貴女自身の生命を保持したまま、ウィリスの活動を長期的に維持出来る可能性がある」
 可能性。
「もう通常の女性の血液では、ウィリスの生命を保てる限界まで来ている。消費までの期間が短すぎて、より多くの素材が必要となってしまう」
 彼が語る内容はおぞましすぎて、かえって現実味が感じられない。
 ただ、自分が協力すれば、もう誰も犠牲にならず、ウィリスも生き続けられるかもしれないということはわかった。
 それだけわかれば、十分だ。
「わかった。なら――」
 アストリアーデが言いかけたその時。
 かたり、と音がした。
 すぐに振り向いたはずなのに、景色の動きはとてもゆっくりで。
 そして、視線が止まった先には、ウィリスが――いた。
 彼女は後ずさり、そして駆け出す。
 一瞬だけ合った目と目。
 そこにあったのは、悲しみでも、怒りでもなかった。
 彼女の瞳にあったのは――ただ、底のない絶望。
「ウィリス!? ――待って!」
 叫び、後を追う。でも、彼女が立ち止まることはない。
 速い。
 ウィリスがこんなに速く走れるなんて思わなかった。彼女が屋敷の道を良く知っていて、自分はそうでないとはいっても、それでも速い。
 精一杯足を動かしているのに、夢の中の追いかけっこのように、全然追いつくことが出来なかった。
 ざわざわと胸騒ぎは収まってくれず、外に出たいと体を殴りつけるかのようで苦しくて、吐き気がした。
 早く、追いつかなければ。
 階段を上り、幾つ廊下を曲がったのだろう。やがて、マーサの姿が見えた。
 彼女は床に尻餅をつき、背中を痛そうにさすりながら、こちらを見ると涙を流し、震える指で道を示した。
 その方向へと駆ける。
「ウィリス!」
 開け放たれた重厚な両開きの扉の向こうには、天蓋のついた大きなベッドがあった。
 お姫さまの寝室なんだ。
 そんなことを、思った。
 それを囲むように置かれた、沢山のワードローブ。そこからベッドへと伸びる無数の管。
「ごめんね。……わたし、生きてちゃいけなかった」
 ウィリスはベッドにしがみつくようにして立ち、荒い息で体を震わせながら、そう言葉を発する。
「そんなことない! ――ないよ!」
 アストリアーデは何度も首を振った。
 彼女を早く休ませてあげなければ。動くのだって辛いはずなのに、そんなに無理をしたら。
「あたしが協力すれば、誰も傷つけずに、生きていけるかもしれないんだよ!」
「大切な友だちに、そんなことさせられない」
 きっぱりと言うウィリスの口調は、あのたどたどしい、幼いものではなくなっていた。
「……それに、わたしの罪は消えないわ」
 ウィリスのせいじゃないよ。
 そう言おうとしたけれど、その言葉を発することさえ許さないかのような空気を、彼女は漂わせている。
「あたしだって、友達を死なせたくなんかない! ――あたしだったら助けられるかもしれないのに!」
 精一杯気持ちを込めた言葉は、けれども水色の瞳に拒絶された。
「もうね、無理なの。わたしの体だから、わたしにはわかるよ」
「でも!」
「初めて、友だちって言ってくれたね」
 ウィリスはそう言って、初めて名乗りあった時のような笑顔を見せた。
「ありがとう。それだけでわたし、救われる。アストリアーデちゃんと出会えて、本当によかった。――幸せだった」
「待って! ――何をする気なの!?」
「ウィリス!」
 おぞましい予感が体を走った時、背後から震える声がして、アストリアーデは振り向く。
 そこには、ウィリスの父の狼狽える姿があった。
「……お父さま」
 ウィリスは、父へと目を向ける。
 とても、哀しそうな目を。
「さようなら」

 ◇ ◇ ◇

「今の音は――!?」
 屋敷の塀を乗り越え、中を探ろうとした矢先に、サリュートアはその音を聞いた。
 他の二人には聞こえなかったかもしれない。何かが落下し、ぶつかるような音だった。
 ――嫌な予感がする。
「俺、行きます!」
 今度こそ勝手な行動は出来ないと思っていた。
 でも、声を上げるので精一杯だった。
「おい、ギル!」
 二人も慌てて、駆け出したサリュートアの後を追う。

 ◇ ◇ ◇

「ウィリス! 何故『シェルター 』を閉じた!? いい子だから出てきなさい!」
 唐突にウィリスと他を分断するように下りた透明な壁を、男は拳で力いっぱい叩く。
 そんな行為が意味をなさないことは、彼自身が良く知っている。これは、この設備を外敵から守るための仕組みだからだ。 皮肉なことに、それが彼を排除した。
 ウィリスはもう体を支えるのも辛そうな足でベッドへと近づき、どさりと横たわった。やがて、ベッドから煙が、そして炎が上がり始める。
「何をしている!? ウィリス! ウィリス!! どこから火が出た!? ――早くここを開けなさい!」
 手が痺れ、血がにじむのを感じながら、男は思い出していた。

『お父さま、それなぁに?』
『ライターと言ってね、簡単に火をつけることが出来る道具なんだよ。面白いだろう?』

 ウィリスは、小さな道具から火が出るのを、魔法のようだと言って喜んでいた。
 娘が死んだ後、そのことを思い出すのも辛くて、どこかへと放り出したまま、その存在を忘れていた。
 彼女はこの屋敷で待ちながら、どこかであれを見つけたのだろうか。
 『シェルター』の操作は、見ているうちに覚えたのかもしれない。けれども何故、ライターを使えたのだろう。
 コピーである彼女は、オリジナルの記憶を持たないはずなのに?
 もしかしたら。――いや、偶然かもしれない。
 徐々に強さを増し、広がっていく炎を見ながら、男は思う。
 もう一度、やり直せたなら。

 ◆

「ウィリス! ウィリス! ウィリス……」
 透明な壁は、煙と炎によって覆われていく。ウィリスの姿も、見えなくなってしまった。
 アストリアーデが力いっぱい叩いても、それはびくともしない。
 炎は勢いを増し、次々と燃え移っていく。でも、動く気にはなれなかった。
 ずるずると力なく膝を折った彼女の手を、誰かが強く引く。
「サリュートア……!?」
 夢かと思った。けれども、体を抱えられ、運ばれているうちに、そうではないのだと実感がわいてくる。
「ウィリスが、友達が死んじゃうの……あたしなら、何とかできるかもしれないの……」
 涙が、とめどなく溢れた。
 もう無理だということは、わかっていた。
「大事な妹に、そんなことはさせられない」
 アストリアーデは兄にしがみつき、声を上げて泣いた。

 ◆

「ぁぁぁぁぁぁ……」
 消え入りそうな声を出し、呆然と立ちすくんでいる男。
 その腕をとる者もあった。
「こちらへ」
 ナオは男を引きずるようにして部屋を出て、扉の右横にある、少しへこんだ空間の壁を指先で探る。
 すると、壁の一部が音もなく開く。中は、小さな空間になっていた。
 彼女は男を押し込むようにしてそこへと入れ、自らも続く。
「ナオ!」
 オーファがそれに気づき、声を上げた。バートは、途中に座り込んでいた老女の保護に当たらせている。
 駆け寄ろうとした時、壁がまた元のように戻っていくのが見え、彼は理解した。
 ――あれが向かうのは、下だ。
 来た道を戻ろうとしたが、思い留まった。それでは、間に合わない。
 近くの窓を幾つか確認し、一番良いと思ったものを、剣の柄で叩き壊す。派手な音が屋敷内に響いた。
 そして暗闇に向け穿たれた穴へと、彼は迷わず身を投げる。

 ◆

 壁が開く。
 一階の廊下へと現れたナオは、男の手を引き、裏口から外へと出た。
 そして、小さな箱を彼へと手渡し、その手に自らの手を重ねる。
「オリジナルのデータです。これを持って逃げてください。また、再生できる可能性はあります。門の外に、馬が繋いでありますから」
 男は箱を受け取ると、裏門へと向かい、よろよろと歩いていった。
 その姿を少しだけ見てから、ナオは振り向き、剣を構える。
「やめておけ。お前の腕では、俺には敵わない」
 オーファも剣を抜き、構えていた。鋭い眼光もこちらへと向けられている。
「知っています。それでも、行かせません」
 対するナオの視線は、いつものように眼鏡に遮られていた。ガラスの表面に、赤い炎がちらちらと映る。
「……俺は、お前を死なせたくない」
「それも、知っています」
 その素っ気無い答えに、オーファは思わず笑みを零した。しかし、彼女のそういうところに惹かれたのは間違いない。
「そうか」
 そして、オーファが足を踏み出すよりも、ナオの手が閃くよりも一瞬だけ早く、二人の前を影が横切った。
 その影はナオの体を絡め取り、地面へと押さえ込む。
「オーファさん、行って! ――早く!」
 サリュートアに力強く頷きを返し、オーファは大地を蹴った。

 ◆

「ウィリス……ウィリス……」
 男は、幼子を抱えるように小箱を胸に抱きながら、森へと向かって歩く。その足取りは酷く遅く、覚束ない。
 馬は門へと繋がれたまま、その姿を見送り、時折所在なげに首を振った。
「大丈夫だよ……また生まれ変われるよ……」
「それは、ウィリスなの!?」
 男を追い、取り押さえようとしたオーファの背後から叫ぶ声を上げたのは、アストリアーデだった。
 彼女はゆっくりと足を止めた男の背中を見る。
 男とナオがした会話の意味を理解できた者は、きっと他にはいなかっただろう。
「ウィリスが、そうしたいって思うはずなんかない!」
 自分は生きていてはいけなかったと、彼女は言ったのだ。
 誰かを犠牲になど、もうしたくはないと。
「また無理矢理生き返らせて――そんなのウィリスなんかじゃないよ!!!」
 ウィリスの父――イシュターは震え、その場へと泣き崩れた。

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