決意

 稜線を越える朝日は眩しく、長い夜の終わりを告げる。
 無言屋敷と呼ばれた屋敷の周囲には人だかりが出来ていて、任事官たちもその対応に追われていた。近くの町から応援も駆けつけてはいたが、まだ人手は足りない状態だ。
 サリュートアとアストリアーデは喧騒から離れ、近くの宿で休んでいた。彼らへの対応は、オーファたちが一手に引き受け、ただでさえ忙しいところを走り回ってくれている。
 屋敷の中庭からは、沢山の遺体が発見されたらしい。
 オーファたちがそう言ったわけではない。町の人たちが噂するのが、嫌でも聞こえてきたのだ。それ以上のことはサリュートアは知らないし、聞くつもりもなかった。
 彼自身、正式なものではないとはいえ、今回の事件の捜査に当たった任事官と行動を共にし、屋敷に囚われていた少女の兄という、歴とした関係者である。その責任があるとは思ったが、妹を一人にしておくことも出来なかった。
 アストリアーデは赤子のように体を丸め、ベッドへと横たわっている。名前を呼んでも、壁を見たままで反応がない。
 サリュートアは暗く沈みそうになる自らの思いを叱りつけながら、妹の上に毛布をかけてやった。
 その時、ドアをノックする音がして、彼は身を硬くする。
「俺だ」
 向こうから聞こえてきたのは、オーファの声だった。ほっと息を吐くと、すぐにドアを開ける。少し硬い表情の彼と一緒に、後ろにいたバートも中へと入って来た。
「調子はどうだ?」
 バートがドアを閉めるのを待ってから、オーファが尋ねる。サリュートアは「うん」と曖昧な返事をした。オーファも「そうか」とだけ言うと、話題を変える。
「これから、どうするんだ?」
 サリュートアは背後を見て、すぐに視線を戻した。
 妹の姿はとても痛ましく、そちらを見続けてはいられない。
「……二人で、家に帰るよ」
「そうか」
 オーファは再びそう言い、それならば安全に帰れるよう手配しようと言ってくれた。
 これ以上世話になるのは心苦しいが、やはりあれだけの目に遭った後で正直不安は拭えなかったし、アストリアーデの今の状態を考えると、とても有り難い申し出だった。
「また、遊びに来いよ!」
 そう明るく言うバートの表情も、普段の彼からすればずっと神妙だ。
 サリュートアは頷き、言葉を返す。
「うん。……でも、どこに遊びに行けば」
 あのアジトに気軽に遊びに行って良いはずもないだろう。
 問われ、バートは気まずそうに頬を掻いた。
「あー……それは追って知らせる」
「何だよそれ」
「うっせーよバカ! 感動のシーンが台無しだろ!」
 彼の物言いはあんまりだと思いながらも、嫌ではなかった。むしろ、水面でようやく呼吸出来たような気分だった。
 アストリアーデとの再会を喜べるはずだったのに、何故、こんなことになってしまったのだろう。
 自分を幾度も救ってくれた笑顔は、もうここには無い。
「……ヨセミスフィア」
「え?」
 突然発せられた言葉に、振り返る。
 アストリアーデがベッドから身を起こし、こちらを見ていた。彼女はゆらり、と体を揺らすと、転げ落ちるようにしてそこから降り、こちらへと向かってきた。
「――あたし、旅を続けたい!」
 そうしてサリュートアに強くしがみつく彼女の目は、少し恐ろしさを感じさせるほど、真剣だった。
「だって……もう無理だよ。帰ろう。父さんも、母さんも、ジェイムだって心配してるよ」
 サリュートアは妹の肩を優しく掴み、出来るだけ柔らかな口調になるように意識しながら告げた。それでも、声は震えてしまう。
 彼女をこんな風にしてしまったのは自分のせいだと思うと、悔やんでも悔やみきれない。
「お願い、サリュートア! お願い……」
 顔を両手で覆い、その場に崩れ落ちるように座り込んで泣く妹を、サリュートアはただ、抱きしめることしか出来なかった。
「サリュートア」
 その空気を打ち破ったのは、オーファの落ち着いた声だった。
「旅を続けろ」
 意外な言葉に、驚きの目を向けたサリュートアへ、彼は続けて言う。
「そして、終わらせるんだ。妹の為にも」
「だけど……」
 オーファの言いたい事は理解できた。アストリアーデは、あの屋敷で行われたことの真相が知りたいのだろう。
 でも、それを知って、彼女は救われるのだろうか。これ以上傷つけることになったらと思うと、それだけで恐ろしかった。
「そうっすよ! 何があるかわかんないですし!」
 バートもオーファに訴えかける。今度はその彼に視線が向けられた。
「バート」
「な、何すか」
 急に名を呼ばれ、彼は少し怯んだような顔をする。
「お前、一緒に行ってやれ」
「へっ?」
「何だ、不服か?」
 バートは動きを少し止めた。
 そしてようやく事態が飲み込めると、大げさな動きと共に、再び声を発する。
「いやいやいやいや全く! 喜んで! オーファさんサイコー! 男前!」
 すぐに調子の良いことを言い出す彼を呆れたように見てから、オーファは一つ咳払いをした。
「サリュートアはどうだ?」
 問われ、サリュートアは二人を見る。
 出会った頃であれば、絶対に嫌だっただろう。
 でも今は、バートが一緒に来てくれるなら、やり遂げられるような気がした。
「心強いです」
「アストリアーデは?」
 頭上からかかった声に、彼女は強張った顔を上げる。
 けれども向けられた目は、優しかった。
 彼女は、小さく頷く。
「決まりだな」
 そう言って頷いてから、オーファは懐から出した地図を広げた。
「だが、すぐにという訳にはいかない。だから、お前たちはこの先の町へ行って宿を取れ」
 現在居るイシュケナに置いた指を、北へと少し動かす。そこには『サイアネス』と書かれていた。
「エンデルファの中でも比較的大きな街だ。宿も多い。滞在するには良いだろう。出来るだけ早く向かわせるが、バートにもやって貰わねばならない事が色々ある」
「そんなこと……本当にありがとうございます」
 サリュートアは頭を深く下げた。沢山の迷惑をかけたというのに、まだ面倒をかけようとしている。
 しかし、まずはアストリアーデのためにも、ここを離れることは良いと思った。
「それから」
 オーファは少し照れ臭そうに視線を逸らしてから、腰に着けた鞄を手で探り、何かを取り出す。
「お前の荷物に、これが入っていた」
 それは、小ぶりの白い封筒だった。
「これが、荷物の中に?」
 あの屋敷へと向かった晩、大きな荷物は邪魔になるから、特に大事なもの以外は持っていなかった。その後サリュートアは川へと落ちたため、置いてきたバッグはそのままになっていたのだ。
 しかし、その中は何度も見たが、こんなものを目にした覚えがない。
「ああ、見えないように縫い付けられていた」
 差し出されたそれを受け取り、中身を出して開いてみる。
 薄い紙に書かれていたのは、短い文章だった。

 *

 まだ見ぬ協力者の皆さまへ

 彼らは困難に遭い、旅を諦めようとするかもしれません。
 けれども、もしその先に進むことを望んだならば、どうか背中を押してあげてください。

 二人の母より

 *

「これは……」
 間違いなく、母の字だ。綺麗ではあるがやや癖のある書体に、懐かしいものがこみ上げる。
 彼女は、二人がいつか旅立つことを察知して、バッグの中にこれを忍ばせたのだ。
 趣味で変装をしたりしているし、分からないように仕掛けを作るくらい、お手の物なのだろう。
「これ、マジなのか?」
 隣からそれを覗き込んだバートが、そう口にする。
「ああ、母さんの字だから」
「お前の母ちゃん、何モンだよ!?」
 彼のその反応が面白くて、思わず口元が綻ぶ。
 何とも答えにくいが、いつも返している言葉がある。
「……変人かな」
 驚きもしたが、母がずっと自分たちを傍らで見守ってくれていたようで、嬉しくもあった。
「俺が連絡をしておこうか?」
 オーファの声が優しく耳に触れた。彼の度重なる心遣いが、胸に沁みる。
「いや、少し落ち着いたら、自分で手紙を書こうと思う」
 もう、今さら隠す必要も感じられなかった。
 家をこっそり離れてからずいぶんと経ち、様々なことがあった。そのくらいはしても良いだろう。
 振り返ると、アストリアーデは再び毛布へと包まり、体を縮こまらせている。
 でも、先ほどよりもずっと、この部屋には希望が漂っていた。

 ◇ ◇ ◇

 馬車に揺られて到着した街は、活気に満ちていた。
 規模はずっと小さいが、綺麗に整備された街並は、マイラを思い出させる。
 ここでまずは宿を取り、バートが来るのを待つ。宿は指定されていたから、迷う心配はなかった。
 停車場で馬車を降りる。扉の向こう側は、思っていたよりも空気が涼しい。
 もう秋も近づいてきている。この先、防寒具も必要となってくるかもしれない。

 懐具合は、以前よりも良くなっていた。任事官として働いた報酬だと、オーファが金をくれたからだ。そんなものは受け取れないと言うと、迷惑をかけられた分は差し引いたと言われた。それでも、連続女性失踪事件を、妹と共に解決へと導いた手柄は大きいと。
 あれだけ良い人物に巡り合えたのも、父の言うように、直感を信じたからなのだろうか。それは、サリュートアにはよくわからなかった。
 右手の先には、よろよろと人にぶつかりそうになりながら歩く、妹の姿がある。
 そのアストリアーデの目には、心配そうにこちらを見る兄の姿も、初めて訪れた街の景色も映ってはいなかった。

『ヨセミスフィアって何? どこにあるの?』

 あの日、ウィリスの父親が言っていたことの意味が知りたくて、連れて行かれるナオへと声をかけた。

『サマルダにあると聞いたわ。私は、行ったことはないし、それ以上のことは知らない』

 ナオは相変わらずの淡々とした口調でそう言った。
 眼鏡の奥の瞳はやっぱり見えなかったが、でも、嘘は言っていないと思った。
 イシュターはすっかり放心していて、きちんと話が出来る状態ではなく、その彼を支えるようにして歩いていたマーサは、アストリアーデの姿を見つけると、深々と頭を下げた。
 そして、こちらが何かを言う間もなく、三人は任事官と一緒に姿を消した。
 ――サマルダ。
 サリュートアと、二人で目指してきた場所。
 そこに行けば、何が起きたのか、わかるのかもしれない。
 ウィリスを生き返らせたいわけではない。ただ、知りたかった。
「……アーデ」
 自分を呼ぶ声がして、そちらへと顔を向ける。
「喉、渇かない? 飲み物でも買って来ようか?」
 そこには、心配そうにこちらを覗き込むサリュートアの顔があった。
「……うん」
「じゃ、ちょっと待ってて」
 アストリアーデは、張り切ったように人をかき分けて進む兄の背中を見送った。
 本当は、何も飲みたくなどなかった。
 けれども、一生懸命気を遣ってくれるサリュートアに対して申し訳なくて、つい頷いていた。
 それを見て嬉しそうに笑った兄を思い出し、また心が痛む。
 そのままぼんやりと立っていたら、誰かとぶつかり、体がよろけた。そちら側を通っていた人にも嫌そうな顔をされ、アストリアーデは頭を下げながら、のろのろと道の端へと移動する。
 重たい頭を上げ、眺めた街を行き交う人たちは、まるで別世界の住人のようだった。
 何かを話して、笑って、手を繋いで、笑って、はしゃいで、笑って――これが、待ち望んでいたはずの、外の世界なのに。
 楽しげなそれは、がやがやとした雑音にしか聞こえなかった。
「――!?」
 今、横切った少女。
「ウィリス!?」
 白い服に映える、蒼く長い髪。
 まさかと思いながらも、足が勝手に走り出すのを、アストリアーデには止めることは出来なかった。
 また人にぶつかって、押しのけて、嫌な顔を沢山されながらも、それでもウィリスの名前を呼び続けた。
 少しだけでもいい。ただもう一度会って、話がしたかった。
 でも確かに見たはずなのに、彼女の姿はどこにも見当たらない。
 走って、走って、走って。
 見知らぬ街で、どこを進んでいるのかも全くわからずに疲れ果て、膝をついた。
 息が苦しくて、足も痛くて、体も重たくて、何もかも嫌になる。
「どうかしたの?」
 優しい声にはっと顔を上げると、白いローブを身に纏ったふくよかな女が、こちらを見つめていた。
 アストリアーデは、彼女の肩越しにその先を見る。
 細長い三角の屋根の上に、白い像――テラ・パトリシュア教会だった。
「あの……ここに、女の子が……来ませんでした?」
 アストリアーデは息を切らせながら尋ねる。
「歳は、あたしよりちょっと上くらいで、蒼い髪……髪が長くて……」
 守りは、不思議そうにこちらを見た。
「水色の目で、睫毛が長くて……色が白くて……そうだ、ほくろもあって」
 そう言いながら、ぽろぽろと涙がこぼれてくる。
「申し訳なさそうに、おどおど喋って、伏し目がちで……」
 最後の瞬間は違っていた。きっとあれが本来の彼女なのだと思った。
 沢山のことがいっぺんに湧き出してきて、でも、どれを選んで良いのかもわからなくて、もう、それ以上言葉を続けることが出来ない。
 ――わかっていた。ウィリスが生きているはずはないと。
 ただ、もしかしたらという思いに、すがりたかったのだ。
「悲しいことがあったのね」
 守りは、大声を上げて泣くアストリアーデを、優しく抱きしめた。

 ◆

「……大切な、友達だったの」
 ぽつり、と。
 小さな部屋で、守りがカップに入れてくれた温かなミルクを少し飲んでから、アストリアーデは言った。
 ある程度の大きさの教会であれば、来た者が気軽に相談事が出来るような部屋が設けられている。
「あたし、助けてあげられなかった」
 また涙があふれて来て、カップの中へと落ちる。
「あたしなら、助けてあげられたかもしれないのに……」
 何でもっと一生懸命ウィリスを説得しなかったんだろう。
 何で自分は、ウィリスにもっと優しくしてあげなかったんだろう。
 もっと出来ることがあったはずなのに、どうしてやらなかったんだろう。
 何で、どうしてと、意味のない言葉ばかりが頭の中でぐるぐると回る。
 あの時、嘘でもウィリスに、ずっとそばにいると言ってあげれば良かった。
 テーブルの向かい側に座った守りは黙って泣くアストリアーデを見守っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「お友達は、何て言ってたの?」
「何て、って……?」
「あなたによ。何か言ってた?」
 アストリアーデは、ウィリスの最期の言葉を思い出す。
「……あ、ありがとうって」
 彼女の純粋な瞳や、微笑み浮かぶ唇の動きが目の前に蘇り、声が震えた。
「あたしと出会えて、良かったって。……幸せだったって」
 守りは宙を彷徨うアストリアーデの手に、そっと温かな手を重ねる。
「あなたは、助けてあげたじゃない。お友達を、幸せにしてあげたんじゃない。それって、凄いことよ」
「でも……でも……」
「もし私があなたのお友達なら、自分を責めているあなたを見たら、きっと悲しむと思う」
「――でも、本心じゃないかもしれない」
 口から思わず滑り出した硬い言葉に、自らはっとする。
「本当に、そう思うの?」
 守りに言われて、アストリアーデは首を何度も横に振った。
 頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたら良いのかわからなかった。
 手の甲を優しく叩かれる感触と一緒に、守りの声が届く。
「いいよ、もっと泣いて。悲しい時は泣いたら、すっきりするから」
「……そんな言い方されると、泣けない」
 思い切り泣こうとしたけれど、悲しみにどっぷり浸かっている自分を見る別の自分が、急に隣に現れたかのような感覚だった。
 顔を上げたアストリアーデに、守りはにっこりと微笑む。
「じゃあ、新しいミルクを飲みましょう」
 そして立ち上がり、ドアを開けて一旦部屋から出て、すぐにまた湯気の立つカップを持ってきた。
 テーブルの上にそっと置かれたそれを受け取り、一口飲む。先ほどよりも温かさや、味がよくわかった。
「……神さまって、いるのかな」
 その言葉は、別段守りに向かって言ったものではなかった。自然と口から出たのだ。
 何故、ウィリスはあんなに悲しい生き方や死に方をしなければならなかったのか。そう思った。
「いるよ。このテーブルの中にも、この花の中にも、あなたの中にも」
 そう言って守りは、テーブルとその上に置かれた花瓶の中の花、そしてアストリアーデを順に手で示す。
「違うよ。……そういうのじゃなくて」
「わかってる。どうして、こんなに辛い思いをするのかってことだよね」
 アストリアーデは、小さく頷いた。
「私はね、人は、色々なことを経験したり、学んだりするために生まれてくるって思ってる」
「悲しいことなんか、経験したくないよ」
 すぐにそう言ったアストリアーデに、守りは頷く。
「そうだね、誰だってそう。でも、辛いことを経験したから、楽しい時の素晴らしさがわかるってこともあるんじゃないかしら」
 今日話した人と、明日また会えるかはわからない。
 そうウィリスが言っていた。そうなってから初めて、気づいたこともある。
「それに、その悲しみを乗り越えた時、あなたはもっと強くて、優しい人になれるよ。悲しみを経験する前よりも、ずっと。誰かに優しくすることも、同じ経験をした人に、色んなことを教えてあげることも出来る。もちろん、そうしないことも出来るけどね」
 その明るい佇まいからは想像もできないけれど、彼女も何か、悲しいことがあったんだろうか。そんなことを、アストリアーデは思う。
「ね、すごいと思わない?」
そう言って、守りは微笑む。
「私たちは、同じ時代に生まれて、広い広い世界の、沢山沢山人がいる中のただ一点で出会って、こうして話してるのよ。あなたのご家族だってそうだし――そのお友達だってそう。出会った人に沢山のことを教わって、そしてまたあなたも、沢山のことを教える。それが、人と人との縁なんじゃないかしら」
 彼女の声は落ち着いていて柔らかなのに、どこか力強く、独特のリズムのようなものがある。よく動く表情も、何だか面白かった。
「私は神様は信じているけれど、お勤めするのはテラ・パトリシュア教会でなくても良かった。そういう『形』に、あまり意味があるとは思えなかったから」
「そんなこと言って、神様に怒られない?」
 アストリアーデの漏らした言葉に、守りはくすりと笑みを零す。
「神様はそんなに心が狭くはないと思うけど」
「でも、他の人に何か言われるかもしれないよ」
「だって、私の信仰心は本物だもの。ただ、表現の仕方が人とは違うだけ。私はそれを知っているから、他の人が何を言おうが関係ないわ。その人がどう思うかってことだって、別に自由だけどね」
「強いんだね」
「そんなことないよ。私だってよく迷ったり、悩んだりする。だけどね、昔よりも慣れて、上手になったのかな。そういうの」
「どういう意味?」
 アストリアーデが尋ねると、守りは首を少しかしげ、考えるようにしてから言った。
「あなた、何か得意なことある?」
「えっと……」
 そう聞かれると、自分は何が得意なのかは良くわからない。
「……馬に乗るのは、少し得意かな」
 しばらく考えた末に思いついたのは、それだった。
 ジェイムに色々と教えてもらった中で、唯一サリュートアよりも上手くなったものだ。
「いいわね! それ、最初から上手に出来た?」
「出来るわけないよ! すっごい練習したんだから!」
 優秀な兄に何か一つくらい勝ちたくて、出来る限り毎日馬に触れ、練習を繰り返した。
「そういうことかな」
「うーん……」
 何だか、わかったようなわからないような話に、アストリアーデは呻る。守りは「そのうちわかるよ」と言って、それ以上は説明してくれない。
「どうして、テラ・パトリシュア教会の守りになったの?」
 アストリアーデは考えるのをやめ、別のことを尋ねることにした。テラ・パトリシュア教会でなくても良かったというのに、彼女がここにいる理由が知りたくなったのだ。
「テラ・パトリシュア教会は、アレスタンはもちろん、東リドスでも最大級の組織なのよ」
 守りは、授業をする先生のような口調で言う。
「だから、ここに決めたの。ここで働いて、偉くなっていけば、沢山の人を助けることが出来ると思ったから」
「偉くなるつもりなんだ」
 アストリアーデは、思わず口元を綻ばせた。自然に笑いが出てきたのは、いつぶりだろう。教会を『組織』と呼び、そこで『働く』と言う守りを初めて見た。
「知ってる? 歴史上、まだ女性の大守長はいないのよ。私がその最初かもしれないわ」
 そんなことを簡単に言う彼女に、アストリアーデは呆れてしまう。
 大守長とは、すべてのテラ・パトリシュア教会のトップのことだ。
「もしかしなくても呆れてる? でもね、何でもまず信じないと叶わない。自分で自分のことを信じてあげなきゃ、誰が信じてくれる?」
 まさか、本気でそんなことを思っているのだろうか。でも、彼女ならやり遂げてしまいそうな気にもさせるから不思議だった。
「大分元気になったみたいね。もう大丈夫」
 そう言って彼女は、アストリアーデの頭を優しく撫でた。その手はとてもあたたかくて、心を落ち着かせてくれる。
「またいつでもここへ来てね。私は、その時はもう、いないかもしれないけれど」
「どこかの教会へ移るの?」
 今までの話しぶりから、辞めるということは考えにくかった。
 彼女は頷くと、両手をぱっと広げる。
「マイラの中央教会へ呼ばれてるの。来月にはそっちにいると思う」
 マイラの中央教会は、アレスタンで最も大きな教会だ。アストリアーデは、驚きに目を見開く。そこで守りが得意気な顔をするものだから、思わず吹き出してしまった。
「あたしも……マイラに住んでるの」
「あら、そう! これもきっと母のお導きね」
 少しだけ迷った後、アストリアーデが言うと、それを聞いた守りは嬉しそうに声を上げる。
「じゃあ、またぜひ会いましょう。まだ名前を名乗っていなかったわね。私はミューシャ」
「あたしは……アストリアーデ」
「そうだ、アストリアーデ。あなた、一人でここへ来たの?」
「あっ、もう行かなきゃ!」
 サリュートアに、また心配をかけているだろう。
 慌てて立ち上がった彼女に、ミューシャは気をつけて、と口にしてから言う。
「その人に、自分の気持ち、もっと話したらどう? きっとお互い、楽になれるよ」
 アストリアーデは頷き、そして礼を言って、教会を後にする。

 ◆

 教会を出てすぐ、アストリアーデは途方に暮れてしまった。
 周囲を見ることもせずに必死で走って来たので、どうやって帰れば良いのか全くわからない。
 引き返してミューシャに道を聞こうかと思った時、腕を強く掴まれた。
「……サリュートア」
 振り返ると、よほど走り回ったのだろう、肩で大きく息をしている兄の姿があった。
「何で勝手に居なくなるんだ!! どれだけ心配したと思ってる!? 叫びながら走ってるのを見たっていう人がいたから……」
 彼がこんなに感情を露わにして怒るのを、初めて見た。
「ごめんなさい……本当に」
 アストリアーデは、そう言って、ただ頭を下げる。
 サリュートアのまだ荒い息遣いは聞こえたが、もう彼はそれ以上、何も言わなかった。
 ゆっくりと顔を上げた目の前で、泣きそうに歪む兄の顔を見て、アストリアーデも、また少しだけ泣いた。

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