ヨセミスフィア

「一体どうなってんだ……? さっきまでいただろ、あんだけの人が……」
 バートは信じられないという表情で呟きながら視線を彷徨わせる。しかしその目が拾うのは、空っぽの建物か、仲間たちの姿だけだ。
 サリュートアは上手く言葉を発せず、ただ周りを見ていた。注意深く見なくてはという思いとは裏腹に、目は景色の表面だけを滑って行き、何も思考のきっかけを掴んではくれない。
 アストリアーデが、必死でこの街は変だと言っていたことを思い出す。
 隣を見ると、彼女もセシリアも、ぼんやりと佇んでいた。
 一陣の風が通りを吹き抜け、それが頬を撫でる冷たさも、埃っぽく乾いた感触も、混じる草のにおいも、確かに感じられるのに、現実感だけがぽっかりと抜け落ちている。
「とにかく落ち着けよ、お前ら、落ち着くんだぞ!」
 そう唾を飛ばしながら、上ずった声で口走っているバートが一番うろたえているようにも見えるが、しかしその言動が、この非日常の状況の中に、日常的な息吹を吹き込んでくれたかのようだった。
 震える耳朶は、次第に脳まで彼の言葉を届けるようになる。
「おい、あの看板見てみろ!」
 その頃にはもう、バートは周囲の状況を観察するまでに至っていた。任事官という職につき、日々事件に揉まれている状況というのは、やはり伊達ではないのだろう。
 皆、彼の指先に吸い寄せられるかのように、そちらを見た。
 建物の壁に、素朴な看板が掲げられている。先ほどその前を通った気もするのだが、何の店だったかは思い出せなかった。
 誰もそこへ近づいてじっくり見ようとはしなかったものの、バートが何を伝えたかったのかは、すぐに理解できた。
 その隣の店も、向かいの店も、ここから見えるどの店先の看板にも、記号のようなものが描かれているのだ。
 内容はわからなくても、それが何なのかはわかる。
 一斉に視線が自分に向いたことに気づき、セシリアは一瞬息を止めたが、やがて小さく喉を鳴らすと、ゆっくりと頷いた。
「アイセフバックですね。……全部」
「どうして、アイセフバックなんだろう」
 アストリアーデの呟きを聞き、サリュートアは考えを巡らせた。
 セシリアによれば、アイセフバックは昔、アレスタンの一部で使用されていた文字であったが その後、使われなくなっていったという。
「私は以前、アレスタンの一部でアイセフバックが使われていたと言いましたね」
 彼の思考の声を聞いたかのように、セシリアが再び言葉を発した。
「父から聞いた話だと、アイセフバックで書かれた文書は、北の方で多く発見されたそうです」
 ここも、アレスタン北部に位置する町だ。
 もしかしたら、ここが発祥の地だとでもいうのだろうか。
「あっ」
 アストリアーデが唐突に声を出す。
「もしかしたら……どこかに『ヨセミスフィア』って書かれてる看板があるんじゃない?」
 一同は顔を見合わせ、それからまた無人の街へと視線を向けた。
「……そうかもしれない」
 サリュートアはそう言って頷いた。それはあり得る話のように思えた。
 あのイシュターという男が研究の末に辿り着いた、ヨセミスフィアという存在。それはここサマルダにあり、街はアイセフバックで埋めつくされている。
 だが、この広い中から一つの言葉を探すのは、骨が折れる作業になるだろう。想像しただけでも気が遠くなる。
 アストリアーデも、同じ心境ではあっただろう。しかし、そんな自分や周囲を鼓舞するかのように、彼女は明るい声で言った。
「セシリアさん、『ヨセミスフィア』って書けるかな?」
「あ、はい。ちょっと待ってくださいね……表現に曖昧な部分がないので、出来ると思います」
 セシリアはバッグの中から紙とペンを取り出し、少し考えながら手を動かしていく。
 やがて、記号のような文字が書かれた紙が、それぞれに配られた。
 それが正しい道かはまだわからないが、全く手掛かりとなるものがないのに比べれば、大いに気持ちが軽くなるのは確かだ。
「よっしゃ、この通りに書かれた看板を探しゃいいんだな? だいじょぶだいじょぶ、きっとすぐ見つかるって!」
 元気を取り戻したバートが、いつもの陽気な調子で言った。

 ◇

「見つかんねーな……」
 ぐったりした声で、バートが言う。
 そうやって本音を素直に口にするのは彼だけだが、そのおかげで皆、気が晴れる部分もあった。
 先ほどまでの元気はどこへやら、という感じではあるが、それがどのくらい前のことだったのか、よく思い出せない。周囲の変化があまりにもないからだ。
 街は死んだように静まり返っていて、見上げれば雲ひとつなく、薄めた絵の具を流し込んだような色の空が張り付いているのが、ひたすらに不気味だった。
 懐中時計はいつの間に壊れてしまったのか、針が動かなくなっていた。そういえば、この街では時計は見かけないということに今さら気づく。
 ただ、喉が渇き、体に疲労は溜まってきているので、時間が過ぎているということは確実だった。
 今は水筒の水があり、非常用の食料もある。
 だが、このままこの状態がずっと続けば、どうなるかは明白だ。流石にそのことは、バートも口には出さなかった。
 皆の顔には疲労の色がにじみ出てはいたが、希望の色もまだまだ失われてはいない。しかし、徐々にではあっても、焦りは大きくなっていく。
 行き交う人々の姿が消えるだけで、これほどまで違って見えるのかと思うほどに、建物も、道も同じように見えた。
 いや、人が歩いていたとしても、同じ印象だったかもしれない。
 壁は元からこのような色だったとは思うが、屋根は空と同じように鮮やかな色彩を失い、濃淡や明暗が違うだけにも見える。
 看板の形は少しずつ異なるため、それは取っ掛かりにはなりそうにも思えるが、気を緩めていれば見落としてしまう程度のものだ。観光気分でその違いの発見を楽しめるというのならともかく、今の状態では集中力を余分に使う。
 サマルダへと来た時、真っ先に目に付いた格子状の街並みは、この迷宮のために用意されたものなのかもしれないと、そんな気がした。
「とにかく、少しずつやっていくしかないよ」
 サリュートアはそう言って、看板を確認する作業を再開する。
 アストリアーデは黙々と続け、バートは時々大きく息をつきながら手に持った紙と看板を見比べ、セシリアは単語一つ一つを紙に書き留めた。
 手分けをして探そうということは、誰も提案しなかった。下手をするとはぐれてしまい、もう二度と会えなくなってしまうかもしれないと思ったからだ。
 アストリアーデは文字と一緒に、あの狼の姿も探していた。でも、真っ白い尾の先すらも、全く目に触れることはない。
 あれだけはっきり見たけれど、やはり見間違いだったのではないかという思いが浮かんでくる。サリュートアも、恐らくバートやセシリアも、あの狼の姿を見てはいない。
 それとも、彼はここへは入れなかったのだろうか。もしくは、迷っているのだろうか。
 自分たちで考え、謎を解き、迷宮を脱せよということだろうか。
 考えれば考えるほど、よくわからなくなる。
 自分が狼を追ったりしなければ、こんな事態にはならなかったのかもしれない。
 ――それでも、ヨセミスフィアというものの核心へと近づいているという感覚は、確かに強くなっていた。
「ねぇ」
 サリュートアの声が近くでし、アストリアーデは我に返る。
 彼は皆に視線を配ってから、続けて言う。
「少し休もう」
「でも……」
 アストリアーデの口からは、ついそんな言葉が出ていた。
 ぐずぐずしていたら、ここから出られなくなってしまうのではないかという恐怖が、抑えていてもせり上がって来る。その力は、疲労と共に強くなっていく。
「闇雲に歩き回るだけじゃなく、少し立ち止まって考えてみるのも大切だって」
「そうだな」
 こちらに再び目を向けたサリュートアの言葉に、バートも同意した。
 彼がちらと視線を向けた先にいたセシリアは、まだ作業を続けている。その顔は真剣だったが、悲痛とも受け取れるものだった。
 アイセフバックを解読できるのは、彼女しかいない。そのことに、彼女自身、大きな責任を感じているのだろう。
 そんな姿を目にしてしまうと、やはり休むという意見に、同意せざるを得なかった。
「セシリアさん」
 アストリアーデが声をかけても、作業に没頭しているためか、反応がない。
「セシリアさん、少し休もうって!」
 もう一度声をかけると、少し間をおいてから、「はい」と小さな返事があったが、それでも彼女の手は休まらなかった。
「きゅーけー!」
 急に耳を引っ張られて驚き、彼女は手に持った紙を取り落とす。
 それを空中でキャッチしたバートは、追いすがる彼女の手を、ひらりとかわした。
「返してください! まだ、全然進んでないんです!」
 珍しく強い口調で言うセシリアに、バートは少し面食らうが、紙を返すことはしなかった。
「だから、休憩してからな」
「そんな呑気にしてたら、ここから出られなくなるかもしれない!」
 静かに作業をしている彼女からは伝わってこなかったが、思っていたよりも追い詰められているようだ。声にも表情にも、強い焦りが見られた。
「……じゃあ、セシリアさん」
 その様子を見ていたサリュートアが、口を挟む。
「ここまででわかった言葉、読み上げてみてくれるかな? 整理したら、何かわかるかもしれないし」
「でも、わからない言葉が沢山あるんです!」
 彼女は泣きそうな顔で言う。
「だけど、なんかヒントになることもあるかもしんねーだろ」
「みんなで考えれば、わかるよ、きっと」
 皆の説得に、彼女は大きく息をつくと、やがて観念したように頷いた。
「……はい」

 ◇

「ライディア……肉、サブリシュは……魚ですね。ハロゲイト……野菜」
 少し休憩を取った後、セシリアは慎重な声音で、リストを読み上げていく。
「アイア――木、エオール……花、モイエン……葉、あとは、ええと……リオルダは――空」
「ん?」
 突然バートが不審げな声を出したので、視線が彼に集まった。それに気づくと、彼はばつが悪そうに頭をかく。
「悪ぃ、ちょっと引っかかったもんで」
「どんなことですか?」
「いや、どうでもいいことっつーか……」
 セシリアに真剣な表情で問われ、口ごもるバートに、彼女は迫る勢いで言葉を重ねる。
「ヒントになることも、あるかもしれないじゃないですか」
「……わかったよ」
 彼は肩をすくめ、小さく咳払いをしてから言った。
「いや、あのさ、何となく店が並んでるのを思い浮かべながら聞いてたもんで、肉屋とか花屋とかはわかるにしても、空屋っつーのはなんだろなって思って……」
「あっ、でもあたしも、ヨセミスフィアっていう言葉だけ探して、他に何が書いてあるかとか、全然考えてなかった」
 自信がないせいか、声が小さくなっていくバートの言葉を引き継ぐようにして、アストリアーデが言う。
「……セシリアさん」
「何かわかったのか?」
「何かわかったの?」
 街並みに目を向け、少し考えるようにしていたサリュートアが何かを言う前に、バートとアストリアーデが同時に身を乗り出した。
 彼は思わず身を引き、そして吹き出す。
 二人も顔を見合わせて笑い、つられてセシリアも笑みをこぼした。
 それからひとしきり笑うと、皆の表情も柔和になり、どっしりと体にのしかかっていた疲れも転げ落ちたかのように体が軽くなる。
 こうして笑いが起こるのも、ずいぶんと久しぶりのような感覚がした。
「『空』の前って、『葉』だったよね。それってどの辺だったかわかる?」
 セシリアはもう一度紙を見てから、頷く。
「はい、わかる……と思います」
 この迷宮の中では、自信がなくなるのも無理はない。
 だが、問題の建物は、彼女が記憶していたとおりの場所にあった。
「こっちが『空』で、こっちが『葉』……ですね」
 セシリアは通路を横切りながら、説明をする。
「やっぱり」
 サリュートアがそう言うと、皆が不思議そうな顔で彼を見た。
「ああ」
 そして、セシリアがため息のような声を漏らす。
「……区画ごとにグループになっているんだわ。空、太陽、星……道を挟んで葉、花、木」

 ◇

 一行は、いったん最初の場所に戻り、今度は違う方角へと進んでみることにした。
「イロ……次、リシェルゴーテ……終わり」
 セシリアが理解できる単語を読み上げながら、手元の紙に書き留める。
 バートは簡単な地図を別の紙に描き、そこに判明した言葉を書き込みながら進んだ。
 サリュートアとアストリアーデは、今まで通り『ヨセミスフィア』という言葉を探すために、少し先に行っては確認し、またバートたちのところへと合流するということを繰り返している。
 同じように見える街並みではあるが、慣れてくると、やはり少しずつ違うのだということがわかる。こうなる前の街の面影も残っているように思えるのだが、記憶に霞がかかったかのように、鮮明に蘇ることはなかった。
「あっ」
 バートがまた声を上げる。彼は今度は躊躇うことなく、自らの思ったことを口にした。
「なぁ、この『始まり』で始まったんなら、この『終わり』に入ったら、終わるんじゃね?」
「うーん」
 その意見に、サリュートアは腕組みをして小さく呻る。
「あなたの人生終わり、とかだったら……」
「保留! 保留にしようぜ!」
 バートは顔を引きつらせながら、慌てて言う。
 サリュートアも特に冗談のつもりで言ったわけではなく、この奇妙な場所であれば、そんな恐ろしいこともあり得るのではないかと思ってしまったのだ。
 他の二人も複雑な表情をしていたから、やはり何か違和感を感じたのかもしれない。
「でも、他になかったら、入ってみようか」
 これから先、納得の行くような答えが見つかるかはわからない。ひょっとしたら、それが正解かもしれないのだから、無視は出来ないだろう。
「エルデケジス。これは、テーブル……だったと思います。こっちは椅子、かな」
 その話はとりあえず保留となり、迷宮探索が再開される。
「ここら辺は、家具のグループなのかな?」
「でもよ、グループがわかったとしても、ヨセミスフィアっつーのが何のグループかわかんなきゃ意味なくね?」
 バートがまた口を挟むが、彼の言うとおりではあった。
 このままでは結局、今までの探し方と大した違いはないだろう。
「名前……とか?」
 アストリアーデはふとそんなことを思い、それを口にする。
「ほら、人の名前とかって、難しいのも多いし」
 セシリアは指先を口もとに当て、少し考え込んだ。
「そうですね……確かにそんな気も、します。でも、そうすると……あっ」
 そして何かを思い出したかのように、バッグの中を探り始める。
 そこから出てきたのは、初めて会ったあのレストランで見せられた書簡だった。
「これは、デウロウロアという人から、ミロバジエという人へと宛てられた書簡と言われています。これを参考にすれば、探しやすくなるかもしれません。父も解読できなかった部分もありますし、私もうろ覚えのところもありますけど……こんなことになるなら、ちゃんとメモを取っておけば良かった」
 そうしてため息をつく彼女の肩を、大きな手が優しく叩く。
「ま、人生何があるかわかんねーからな!」
「気持ちはありがたいんですが、あまり慰めにならない言葉ですね」
 それでも彼女の顔には、笑みが広がる。
 それから彼女は、書簡を見ながら、次々と言葉を紙に書き写していった。
「わからない言葉も、怪しいものはピックアップしました」
 そして人数分作成すると、皆へと手渡す。
 アストリアーデもそれを受け取り、改めて静まり返る街を眺めた。
 この先、このリストの言葉が全く見当たらなかったらどうしようと思うと、軽くなった気持ちも、また重さを得て沈んでいってしまいそうになる。
「とにかく、試してみるっきゃないって。一つ一つ潰してきゃ、いつかは終わんだから。これ捜査の基本な」
 その思いが表情に出ていたのだろうか。バートに頬を引っ張られた。
 セシリアの時と引っ張り方がずいぶん違うじゃないか、という言葉が喉元まで出かかる。
「もし駄目でも……いえ、きっと駄目じゃないですけど、私も頑張って解読して、考えますから」
 そう言って微笑むセシリアは、やはり自分よりもずっと大人なのだという感じがした。
「それじゃ、始めようか」
 サリュートアの言葉に、アストリアーデは大きな頷きで応える。

 ◇

「セシリアさん!」
 あれからどのくらい彷徨ったのかはわからない。
 お互いに励ましあい、それでもじりじりと広がる焦燥と絶望に、屈服しそうになりかけた時だった。
 サリュートアが大きく上げた声に、皆が集まってくる。
「これ……」
 指先が小さく震えた。これで間違いだったらという思いで、嫌な汗が首の後ろに滲む。
 セシリアは看板に目を近づけて何度も読み、単語を書き写した紙だけではなく、書簡の方も確認してから言った。
「間違いありません」
 その言葉を聞き、皆のついた溜息が、風のような音を立てる。
 ヨセミスフィアではないが、リストアップした単語の中の一つを、ようやく見つけたのだ。
「……でも、私には意味が理解できない単語です」
 続けて痛みを堪えるかのような声音で告げた彼女に、仲間たちは顔を見合わせる。
「何言ってんだよ! すげー進歩だって!」
「そうだよ、あとはこの区画を探せば、きっと見つかるよ!」
 バートとアストリアーデに明るく励まされ、セシリアは小さく頷いた。
「……はい、そうですね」
 サリュートアは、二人ほど楽観的にはなれなかった。
 見つかったのは、選び出されたものとはいえ、セシリアも知らない言葉だ。
 ただ書簡にあったというだけで、もしかしたら全く関係ないものかもしれない。
 しかし、そんなことを言っても始まらないのも確かだ。今はバートの言ったように、可能性を少しずつ潰していくしか方法はない。
 すでに歩き始めていた三人を、サリュートアは追う。

 ――誰も、何の言葉も発さない。
 それからこの区画をくまなく探しても、ヨセミスフィアという言葉は見つからず、セシリアが知っている言葉すら見当たらなかった。
 皆、思い思いの場所に座り込んでいたが、自然と道の中央に集まっている。立ち並ぶ建物の方に寄るのは、何となく抵抗があった。
 力なくうなだれ、休んでいる仲間から視線を逸らすと、もう見たくもない街並みが目に飛び込んでくる。それを憎々しげに睨んだところで、何の反応も返っては来ない。
 体中がぐったりと重くなり、頭もぼんやりとしてくる。体も精神も、もう限界が来ていた。
 このまま目を閉じて眠り、少しでも体力が回復すれば、また迷宮で迷う気になれるだろうか。
 それとも眠ったら最後、もう目覚めることはないのだろうか。
 出来ればこれは悪い夢で、目が覚めた時には温かいベッドの上にいるというのならいいんだけど。
 朦朧としてきた意識の中、様々な考えや記憶が巡る。

『その……狼がね』

 アストリアーデが言っていたことも一瞬目の前に浮かび、泡のように弾けて消えた。
 そういえばあの時、彼女は何かを必死で追っていた。それが狼だったとでもいうのだろうか。
 あんな、人が沢山行きかう街中に?
 だとしたら、サマルダの周囲には山も森もあるし、そこから迷い込んできたのかもしれない。居心地がよければ、そのまま居座ることもあるのではないだろうか。
 こんな状況でも、そんなどうでもいいことを突き詰める自分が、何だか可笑しかった。
 それでも、どうでもいい思考は、つらつらと巡る。
 じゃあ、その狼は、ずっとどうやって過ごしていたんだろう?
 あまり人目につくところをうろうろしていたら、捕まってしまうかもしれない。
 公園かどこかに寝床を確保して、隠れて眠って、移動はなるだけ人の少ない場所を選んで、こっそり通るのだろうか。少し姿を見られたとしても、犬がいるという程度にしか思われないかもしれない。
 餌はどうやって手に入れる? 家畜や人なんか襲ったら殺されてしまう。それならば、路地裏で残飯を漁ったりして――。
「――!?」
 サリュートアは、勢いよく顔を上げた。
 自分が今考えたことを反芻する。その度に、意識は鮮明になっていく。
「路地裏だよ!」
 大きな声に、皆弾かれるように顔を上げた。
「な、なんだよ、いきなり」
 驚いて声を詰まらせるバートに、サリュートアは興奮気味に捲くし立てた。
「俺たちが見てきた看板は、今までどこにあった? 表通りの建物はぐるっと見たけど、その奥には何がある? まさか表から見える建物が、隙間もなくぎっしり詰まってるなんてことないよね?」
「でも、路地なんて見当んなかっただろ? ……隠し通路みたいなもんがあるってことか?」
 彼の意図をようやく飲み込み、バートが腕組みをして言う。
「そうかもしれないし――もしかしたら、見落としたのかもしれない」
「見落とし? あんだけ見て回ったんだから、あったら気づくだろ、普通」
「そうかもしれない。普通なら」
 しかし、今の状況は、お世辞にも普通とは言えない。それは全員が感じていることだ。
 バートの目にも、自信の揺らぎが見て取れた。
「俺たちは、アストリアーデの見たものを、見てなかった。もしかしたら、それと同じことが起きてるってこともあるかもしれない」
 アストリアーデの方には視線を向けなかったから、彼女がどういう表情をしていたのかはわからない。
 バートとセシリアはそちらを見て、少し表情を緩める。それで少し、気が楽になった。
「そうですね。探してみましょう」
 言うが早いか、セシリアは再び、先ほど調べた区画の方へと向かう。三人も、その後に続いた。
 看板は何度も確認したので、路地がないかだけに注目しながら、慎重に歩みを進めていく。
「マジであったぞ!」
 程なくして、人一人がやっと通れるくらいの幅の路地が、意外にもあっさりと見つかった。
 隠されていた形跡など、全く見当たらない。
「どうして、見落としていたんでしょうか」
 路地の奥を恐る恐るといったように覗き込みながら、セシリアが首を捻る。
 こんなに狭い道であるし、周囲は一面アイボリーの壁だから、看板だけに注目していれば、見落とすということもあるかもしれない。しかし、何度もこの前を通っているのだから、にわかには信じがたかった。
「あっ」
 その時目に入ったものに驚き、皆が止める暇もなく、セシリアは路地へと飛び込む。
 そして、入ってすぐ右手の壁に、じっと顔を近づけた。
「リッシェノルジェ……見てください! これ、書簡に出て来る名前です!」

 それから細く入り組んだ路地を、一行はたどたどしく進んだ。
 もう何も見落とすまいと、全員が目を皿のようにしながら歩く姿は、もし誰かが見ていたならば、滑稽に映ったかもしれない。
 やがて、周囲の建物に挟まれるようにして佇む、小さな家が見つかる。
 他と同じアイボリーの壁に嵌め込まれた木のドアの横には、粗末な看板が提げられていた。
 今日だけで何度見たかわからない、記号のような文字だ。
「ヨセミスフィア……」
 誰ともなく呟く。
 そこには、確かにそう記されていた。

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