暁の道標

 小さな扉の取っ手に、サリュートアは手を掛ける。扉は軋む音を立てながらも、すんなりと内側へ開いた。
 暗い空間に明かりを灯したランタンをかざすと、すぐに下へと続く階段があるのが見える。
 サリュートアは慎重に右足を前に出して、扉の向こう側へと差し入れ、それからゆっくりと体重を乗せた。
 特に変わった様子は感じられない。そのまま思い切って左足も持ち上げ、完全に体を中へと入れる。
 やはり、何も妙なことは起こらなかった。
 とりあえずはほっと息をつくが、どちらにしてもここを進む以外にはないだろう。その他の可能性を考えるのも、正直うんざりした。
 肩越しに振り返り、皆に向かって大きく頷いてから、前に視線を戻し、彼はしっかりとした足取りで階段を踏みしめて進む。
 後ろにはアストリアーデが続き、セシリア、殿をバートが守る形となった。何かあった時にはすぐ戻れるよう、扉は開けたままにしておく。
 暗く狭い階段を、ランタンの明かりを頼りにしながら、四人は慎重に下りた。
 時折振り向くと目に入る、開いた扉から漏れる光も、次第に遠ざかっていく。
 先立って動こうとするバートを制してサリュートアが扉に触れたのも、先頭を進むことを買って出たのも、他の二人よりも、自分たちのほうがこの場所に『近い』存在だと感じたということもあった。
 だが、何か特別な反応がある様子も今のところ感じられないし、そもそもそんなことがあるのなら、あの迷宮だってもっと簡単にクリアできたのではないかと思う。
 階段は、緩やかに右へとカーブしていた。
 そのため、しばらく進むと壁に遮られ、背後の扉の光が完全に見えなくなる。
 その時、微かな音が背後からした。
「――!?」
 バートは急いで階段を駆け上がる。三人もすぐに後を追った。
 音は段々と近く、大きくなり、きぃぃ、と尾を引くものへと変わっていく。
「くそっ!」
 伸ばしたバートの手は間に合わず、扉は硬い音を立てて完全に閉じた。
 勢い余った彼の体は、痛そうな音を立てながら扉にぶつかる。
「どうなってんだ!? 何にもねぇ!?」
 それからすぐにノブに手を掛けようとしたのだが、彼の指先は、そのまま宙を掻いただけだった。
 慌てて叩いても、手で探っても、繋ぎ目もなく、ドアがあった形跡すらない。
 今度は蹴飛ばそうとして体が後ろへ傾き、危うく階段を転げ落ちそうになるのを、両脇の壁に手を突っ張ることで何とか凌いだ。
 彼はほっと息をつき、そして大きく舌打ちをする。
「進むしかねぇってことか」
 そう言って体をくるりと皆のほうへと向け、バートは大げさに両手を挙げてみせた。他の皆も、大して落胆はしない。
 奇妙な出来事の連続に、皆あまり動じなくなってきていた。感覚が麻痺していたとも言えるだろう。
 四人は、また慎重に階段を下り始める。それぞれの足音がぱらぱらと、不規則に響いた。
 それは周囲へとこだまして数を増やし、雨垂れのようなリズムを奏でる。
 その音を聞いているうちに、サリュートアの意識は今いる現実から離れ、冷静に状況を眺める目となった。
 指先に触れる壁の色は良く見えなかったけれど、それが街を形作っていたアイボリーの壁ではないということはわかった。もっと冷たく、硬い感触だ。足下で音を立てる階段も同じだった。
 今までと材質が変わったということなのだろうか。だとしたら、どこで変化したのだろう。
 そんなことを思っていた時、今までとは違ったものが、目に飛び込んできた。
「光だ!」
 先に見える一点の光。自然と足の動きは速まる。
 階段を下りているはずなのに、時に上るような、細い綱の上を渡っているかのような、同じ場所でぐるぐると回っているかのような感覚を覚えながらも、皆、その光を目指して進んだ。
 そして、徐々に大きさを増していた光が突如、目の前を覆うほどに広がる。

 ◇

「ここは……?」
 光が収まり、今いる場所を確認したサリュートアの口から出たのは、そんな言葉だった。
 我ながら芸のない台詞だと、つい思ってしまうのは、バートの影響が大きいのかもしれない。
 後ろに視線を向けると、下りて来たはずの階段はなく、つるりとした白い壁の手前には、同じように周囲を見回している仲間たちの姿があった。
 飾り気のない部屋の天井はぼんやりと光り、広い室内を鮮明に照らしている。
 壁には、大きなガラス板のようなものが何枚も嵌め込まれていて、奥の方には扉らしきものも見えた。
 中央には円形の台座のようなものが置かれている。
 そこには、子供が腰掛けていた。
「あんたは……?」
 アストリアーデの口から、尋ねるというよりは驚きのような声が漏れる。
 六、七歳くらいだろうか。シンプルな白いワンピースを着た少女だった。
 黒髪で目が大きく、肌は日に焼けたように小麦色をしている。それがさらに、この場所に彼女がいる違和感を際立たせた。
「ヨルウェド地区特殊情報管理機関、通称ヨセミスフィアへようこそ。わたしは、そのコンソールよ」
 彼女は興味深そうに四人を見て、それから言った。
「コンソール?」
 耳慣れない言葉に聞き返すと、少女は淀みない口調で答えを返す。
「わたしと話すことで、必要なものをやり取りできるってこと」
「何なんだよ、ここ」
 バートが信じられないという表情で周囲を見ながら、そう口にした。
 『遺産』と呼ばれるものを利用してきた彼らではあるが、ここに漂う空気は、それとはかなり違う感じがした。
 そもそも、ここへと辿り着くまでの道筋が尋常ではない。
「様々な施設や端末を管理し、情報の伝達や集積、解析を行う場所。あなたたちが『リポーター』と呼んでいるものの情報もここへと送られ、『リーダー』へと伝えられるの」
「俺が誰だか知ってるみてぇな口ぶりだな」
 訝しげなバートの言葉に、少女は笑顔で頷いた。
「ええ、バート・レイトン任事官補佐。アレスタン第二地区遊動班所属の21歳。出身はファンサーレ地方メザ。酒場で女の子を――」
「ちょ、ちょっと待った! ストップ、そこまで、終わり!」
 少女の言葉を、真っ赤な顔で止めに入るバート。
「わかった、よくわかったから。――な、何でそんなことまで知ってんだよ?」
「あなたたちが話してたことがこっちに伝わって、記録されてるってだけよ」
「だから、どういうことだってばよ?」
 にこにことしながら説明する彼女に、バートは質問を繰り返した。
 ここには今まで一度も来たことがないのに、そんなことを言われても訳がわからない。
「そうね……なら」
 少女がさっと手を振る仕草をすると、奥の壁の上半分ほどに、突如四人の姿が映し出される。絵よりももっと鮮明で、実際に目の前に当人が居るかのような姿だった。
 その場所がどこなのかは、すぐにわかる。スウォルトの家から続いていた、あのトンネルだ。
 皆、歩いたり、時折立ち止まって周囲を眺めたりしている。
 自分たちの動いている様をこうして見るというのは、妙な気分だった。
「こんな風に、あなたたちがメザでアジトとして使ってる場所の情報も、ここに届くようになっているの」
「えっ、ま――マジかよ!?」
 バートの顔が、今度はさっと青ざめる。
「じゃ、じゃあ、全部筒抜けってことか!? 俺が――いや、俺らの情報が、敵に。犯罪者とかに」
 その反応が面白かったのか、少女はくすくすと笑った。
「その情報を引き出そうっていう人がいればね」
「まさか、『遺産』って呼ばれてる場所は、みんなそうやって見張られてんのか!?」
 声が段々と上ずって行くバート。
 だが、少女は首を横に振る。
「ううん、そういう仕組みになっている場所だけよ」
 徐々に稼動数も減ってきているしね、と彼女は付け加えた。
「……父も」
 壁に映ったトンネルの様子に目を奪われていたセシリアが、震える声で言う。
「ここを通ってるはずなんです。――何度も。それも見られますか?」
「日時は?」
 問い返され、彼女は小さく首を振る。
「正確なことはわかりません。恐らく……数年前には」
「数年前なら、ほとんど人も通ってないから……」
 そう言って目を閉じた少女が再びまぶたを開くと、壁に映るものが、ぱっと切り替わった。
 景色は同じ。だが、そこで動いている人物は一人だけだ。
 初老の男で、撫で付けた黒い髪には、多くの白いものが混じっている。上等なジャケットに不釣合いな、色あせた円筒形のバッグを背負っていた。
 彼は上機嫌で少し歩いては立ち止まり、目を輝かせて周囲を観察している。
「お父さん……」
 セシリアは目を潤ませながら、ふらふらとそちらへ近づいた。
 バートは彼女の腕を取り、引き止める。何があるかわからないからだ。
 彼女はそれを振り払おうとはせずに、足を止めたまま、首を伸ばすようにして目を凝らした。本当に父がいるわけではないということは、わかっている。
 壁に映る父は、彼女の思い出の中にある姿、そのままだった。
 珍しいものがあると子供のように目をきらきらとさせて、興奮した様子でずっとそれを眺め、嬉しそうに語る。
 大好きな父はもういないのだと、改めてその事実を突きつけられたような気がした。
「……父は、殺されたんでしょうか」
「さぁ。そういった情報は、こちらには届いていないわ」
 彼女の呟きのような問いに、少女は淡々と答える。
「でも、フォルスタ・リーヒャエルドが殺害されたかもしれないっていう線で、捜査が始まるみたいよ。ユミル・バーガンディー任事官の収賄疑惑が告発され、それによって揉み消された事件が発覚したの」
「バーガンディー!?」
 続いてもたらされた驚くべき情報に、思わずバートは大きな声を出す。
「告発した人の名前は? ……わかりますか?」
 セシリアも驚きに目を見開き、かすれる声で尋ねた。
「スウォルト・ナシェビルよ」
「じーさん、やりやがったな」
 彼の言った、取るべき行動というのは、このことだったのだろう。
 追っ手が途絶えた理由も、これだったのだ。
「……何で、あんなことを教えたの?」
 高揚する空気の中、アストリアーデが唐突に言った。その声は、小さく震えている。
「何で、ウィリスの――イシュターに、あんな技術を渡したの?」
 その言葉だけで、少女には伝わったようだった。
「欲しいと言われたから、あげただけだけど?」
 何故そんな当たり前のことを聞くのだろうとでも言うように、彼女は肩をすくめ、さらりと言う。
「元々蘇生のための技術ではないし、素体の損傷も激しかったから、どうしてもコピーの維持に無理が出てしまうんだけど、それでも構わないっていうから――」
「何でそんなことをしたのかって聞いてるの!」
 アストリアーデは声を荒げ、少女の説明を遮る。
 一瞬にして、自分の頭に血が上ったのがわかった。
 歯の奥が震えるような、うずくような感覚がし、体の中心から力が抜けて、座り込んでしまいたい気持ちになる。
「そんなことをしなきゃ、沢山の人が傷つくこともなかったし、ウィリスもあんなに苦しまなかった!」
 叫びながら、すでに彼女は少女に向けて駆けていた。
 だが、その姿が目前に迫っても、少女は動こうともしない。
 掴みかかろうとしたアストリアーデの指先は何の感触を得ることも出来ず、体はもんどりを打って床まで落ちる。
 じん、と体が痺れた。
「わたしには、あなたたちみたいに肉体があるわけじゃないから」
 台座に座ったまま、床で痛みを堪える彼女を見下ろし、少女は淡々と言う。
「うるさい! ――うるさい!」
 ならばとアストリアーデは、台座や、床や、壁に向かい、滅茶苦茶に手や足を振り回し始めた。
 それらに傷一つつく様子はないのに、こちらの体には衝撃と痛みが返って来る。それでも彼女は、動きを止めることをしない。
 もう大丈夫だと思っていた。
 でも、冷たく固まった氷が解け、その中に閉ざされていた棘だらけの種子が弾けたかのように、一瞬にしてあの時の痛みが蘇ったのだ。
「アストリアーデ!」
 サリュートアが駆け寄ってきて、体を羽交い絞めにする。
 振り払おうとしても、流石にずっと力が強い。
 自分にも肉体がなければ、それを難なくかわすことが出来て、もしかしたら少女に殴りかかることだって出来たかもしれない。
 こんな苦しい思いなんかせずに、淡々と「もう過ぎたことだ」と肩をすくめて言えたのかもしれない。
 ――馬鹿馬鹿しい。
「離してよ!」
 思い切り手を振るったら、小さな呻きが上がった。
 慌てて背後を振り返ると、サリュートアの頬が切れ、少し血がにじんでいる。
 一体、自分は何をしているのだろう。
 そう思ったら、涙が溢れてきて止まらなくなった。
「……おい、どういうことなんだよ」
 バートが、何度目になるかわからない疑問の言葉を口にする。
 セシリアは勿論のこと、バートも、あの屋敷で何が行われていたのかを、詳しくは知らない。
 そして普通に会話をしていた少女には、肉体がないという。
 いくら奇妙なことに慣れてきたとはいえ、それを一気に消化することは、流石に難しかった。
 バートは所在なげに立ち尽くし、セシリアは何か言おうとしてはやめることを繰り返す。
 沈黙の中、アストリアーデのすすり泣く声だけが、辺りに響いた。
「リッシェノルジェに言われたの。自分がいない間の判断は、わたしに任せるって」
 それを見ていた少女は、困惑したような表情を浮かべる。
「彼女がいた時も、実験や戦争のためと言ってここに大勢の人が来たけど、それを悪いと言われたことは一度もなかった。イシュターは、どうしても娘とまた会いたいからって言ったの。それが何故こんなに非難されることなのか、わたしには理解できないわ」
 彼女は、初めての難解な問いに挑むかのように、腕を組み、顔をしかめた。
 リッシェノルジェとは、セシリアが持っていた書簡に出てきた名だ。
「……あんた、その人がいなくなってから、ずっと一人なの?」
 怒りや痛みはぶすぶすと燻り、まだ収まってはいなかったのに、アストリアーデはそう尋ねていた。
 その名前を口にした時の少女の声が、どこか淋しげに聞こえたからだ。
 もしかしたら彼女の無邪気な物言いに、ウィリスの面影を重ねていたこともあるのかもしれない。
「リッシェノルジェがここを去ったのは、1018年と4ヶ月16日2時間29分54秒前。スタッフは以前はもっといたんだけど、彼女が最後の一人だったの」
 彼女はまたさらりと言うが、それはあまりにも気の遠くなる時間で、想像しても全く実感が湧いてこなかった。
「淋しく、なかったの?」
「淋しい? ……それがどんな感覚なのかはよくわからないけど、これがわたしの役割だもの」
 そう言って少女は不思議そうな顔をする。
 ウィリスと話をした時も、中々意思の疎通が上手く行かなかったことを思い出し、アストリアーデは表現を変えてみることにした。
「あんたは人と話して、面白そうに笑ったり、困ったような顔をするじゃない。ずっと誰とも話せなくてつまらなくなかった?」
 すると少女は、微笑みを浮かべる。
「わたしにはね、沢山の表情や反応のパターンが用意されてるの。それらしい反応をしても、あなたたち人間が感じてる感情とは、また違うものだと思うわ」
 これだけ表情豊かな彼女に感情がないというのは、アストリアーデには、どうしても信じられなかった。
 こんなところに千年もの間、たった一人でいるというのは、どんな気持ちなのだろう。
 そして、突然人がここを訪れて、思いがけず会話が出来て、その人から真剣に何かを頼まれたら、どんな気持ちがするのだろうか。
 そう思うと、感じていた怒りは、少しずつしぼんで行ってしまう。
 その代わりに浮かんできたのは、様々な思考だ。
 イシュターの望みを叶えるために、ヨセミスフィアは使えそうな技術を探し出し、提供した。
 でも、そもそもが、イシュターが娘の死を受け入れられていれば、こういうことは起こらなかった。
 しかし、その結果アストリアーデはウィリスと出会い、短いけれども、お互いにかけがえのない時間を過ごせたというのも、また事実だった。
 様々な考えが錯綜し、どうしたら良いのかわからなくなる。
 そうして震える妹の肩を、サリュートアはそっと抱き寄せた。
 彼女の中で、戦っているものがあるのだということが伝わってくる。
 そして彼はもう一人、孤独の中で戦っている人のことを思った。
「……空から地上の景色を映す機械も、ここで管理してるのか?」
「衛星映像の受信端末のこと? ええ、そうよ」
 少女は小首を傾げ、答える。
「それを、止めることは出来る?」
 サリュートアは続けて聞いた。
 あれを止められれば、リシュカは救われる。彼女を縛り付けるものから、自由になれる。
「ここに関連付けられているものであれば、止められるわね」
 ここと関わっていないものであれば、止められないということか。
 サリュートアは渇いた喉に唾を飲み込み、こう聞いてみる。
「リシュエンス、アドルアの森にあるものは?」
 言った後、また口の中が渇いた。
 答えは、程なくして返って来る。
「ここで管理してるものね」
 長く吐いた自らの息の音が、やけに大きく聞こえた。
 なら――と続けようとして思い直し、言葉を変える。
「……ここの、全ての機能を止めたい」
「ええ、わかったわ」
 彼女の返答は、とてもあっさりとしたものだった。
「お前に命令したら何でも聞くって、危なくねーのかよ」
 横から言ったバートに、少女はまた面白そうに笑う。
「どうかしら。リッシェノルジェが去ってから、この場所にたどり着いたのは、あなたたち以外には三人しかいないけれど」
 そのうちの一人は、イシュターだろう。
 アストリアーデは顔を上げて、兄を見た。そして、彼の決断の真意を理解する。
 ここが止まれば、リシュカという少女が守っているものも確実に動かなくなり、ウィリスのような悲劇を繰り返すこともなくなるだろう。
「『遺産』を動かなくしちゃったら、お父さんたち、怒るかな」
 アストリアーデは呟いてから、すぐに続けた。
「……怒らないだろうね」
「そうだね」
 サリュートアも彼女の意見に同意する。
 両親ならばかえって面白がるかもしれないし、ジェイムはきっと優しく受け止めてくれるだろう。
 背後を向くと、その視線に気づいたバートは小さく肩をすくめる。
「いんじゃね? 別に」
 それから、大して興味もなさそうな口調で言った。
「そりゃ、捜査は楽になっかもしんねーけどよ。この前だって大して役に立ってねーしな。アレがあったおかげで、かえって裏かかれちまったし。結局地道な捜査に勝るものなし、ってな」
 あれがなければ、ナオの行動はまた違っていたかもしれない。
「それに俺たちが思ってるよりもあるみてーだから、犯罪者も使えなくなっていんじゃね?」
 言いたいことを言い終わってから、彼は慌てて隣を見る。
 セシリアは微笑んで、それから言った。
「私は、こういうものが身近になかったので、正直実感が湧かないですね。最初からないと思えば同じですし。……父は、残念がるかもしれませんけど」
 少し淋しげに付け加え、それからまた笑みをこぼす。
「でも、もう十分楽しんだと思います。人は必要なら、またこういったものを自分で作るんじゃないでしょうか。バートさんのお友達の発明家さんみたいに」
「友達じゃねーよ。あと『自称』発明家、な」
 バートが律儀に訂正すると、思いがけない方向から反応する声があった。
「それは天才発明家、ウサナ・ギーターのことかしら?」
「知ってんのか!?」
 驚きの声をあげる彼を見て、少女はまた笑う。
「彼の装置からの通信が、時々ここへと繋がるのよ。本人はそれに気づいてはいないみたいだけどね」
 それを聞き、バートは何ともいえない複雑な表情を浮かべる。
「教えてあげたらどうですか?」
「やだよ」
 セシリアの言葉に彼が苦々しい顔をすると、その場が自然と笑いに包まれた。
 そうだ――とサリュートアは思う。
 アストリアーデと二人きりだったら、きっとこうはならなかっただろう。
 旅の連れとしてバートが加わり、変化した空気に触れたアストリアーデも笑うようになり、セシリアも加わると、新たな糸で織物の柄が複雑になるように、また違った変化が現れ始めた。
 今は何も映し出していない、壁の方を見る。
 『遺産』に触れた者の姿が数多く残されているのであれば、もしかしたら、自分たちと同じ名前とそっくりな容姿を持つという双子の姿も、残されているのかもしれない。
 でも、それを見てみたいという思いは、湧いては来なかった。
 怖いのかもしれない。けれども、もう、どうでもいいという気持ちのほうが強い。
 その双子が自分たちと何らかの関わりがあるとしたら、何だというのだろうか。それを知って、どうするのだろうか。
 彼らには、ヴィンスターレルとミストという両親はいなかった。ジェイムという存在もいなかった。
 一緒に旅に出て離れ離れになり、オーファやレン、バートと出会うこともなく、リシュカという少女と、思いもかけない形でめぐり合うこともなかった。
 バートと再会し、セシリアという道連れをひょんなことから得て、事件に巻き込まれながらも、ここまで辿り着くことはなかったはずだ。
 ――自分は、自分だ。
 それは、サリュートアが旅をしてきた中で、見つけた答えだった。
「そろそろ、止めてもいい?」
 少女の声が、施設内に響く。
「……ここが止まっちゃったら、あんたは消えちゃうの?」
 それは怖くないのかと聞こうとして、アストリアーデはその言葉を飲み込んだ。
 きっと彼女は先ほどと同じように、そんな気持ちはないというだろうし、自分たちが止めろと言ったのに、それを聞くのはあまりにも無責任だと思ったからだ。
「必要なくなるから消えるけど、この映像がわたしの全てって訳じゃないから。あなたが今踏んづけてるその床だって、わたしの体ともいえるのよ」
 はっと足元を見て、慌てて片足を上げたアストリアーデを、彼女は可笑しそうに眺めた。
「それじゃあね。あなたたちに出会えて楽しかったわ。――たぶん、ね」
 感情がないという少女――ヨセミスフィアの、それが気持ちを素直に表現した言葉だったのだろう。
 こちらから何か言葉を返す間もなく、辺りは再び眩い光に包まれた。

 ◇

「あ? ここ、どこだ?」
 光が徐々に収まっていき、意識がはっきりとしてくるにつれ、寒さもじわりと体の奥まで届いたようで、バートは身震いをする。
 周囲には、濃い霧がかかっていた。
 少し目が慣れてくると、近くに居る皆の姿も確認できるようになって来たが、あの少女の姿はもうなく、辺りを覆っていた施設の白い壁も、そこにはない。
 足下を見ると、彼の靴が踏みしめているのは草であり、その下の土だった。
 風が吹き、それが鼻の奥をくすぐると、深い緑のにおいがする。どこかで、木の葉が揺れる音もした。
「さっきまでの、あの場所はどうしたんでしょうか? 何か不思議な力で、どこかに飛ばされた……とか?」
 セシリアも周囲を見回して言う。
 彼女自身、それを信じていたわけではないのだが、あまりにも自分の理解できる範囲外の出来事が続いたので、そういうこともあるかもしれないと思ったのだ。
「多分、俺たちは知らないうちに外に出されたんだと思う。前に――はっきりではないけど、見たことがあるんだ。動く部屋みたいなのを」
 サリュートアが、地面に視線を向けたままで答える。
 あの屋敷で、ナオはイシュターを連れて壁の中へ姿を消し、その後二人は、いつの間にか階下へと移動していた。
 ヨセミスフィアの中へは階段で向かったが、ああいったものがあるのであれば、四人を一度に外へと出すことも可能だろう。
「んじゃ、あの施設はこの下にあんのか」
 バートはそう言って足を何度か踏み鳴らしてみる。だが、草と土を踏む感触しか返って来ない。
「推測だけどね。……でも、サマルダの街はどうしたんだろう? 明かりも見えないなんて」
 霧は少しずつ晴れ、見通しは良くなって来ていた。そこから見える空は暗かったが、草木の影は確認できる。
 しかし、建物らしきものや、人の気配というのは、全く感じられない。
 ここが郊外であったとしても、明かりすら見えないというのは奇妙だ。
「……ねぇ、サリュートア」
 そこで、アストリアーデが口を開いた。
「あの街って、石畳が敷いてあったでしょ?」
 サリュートアは彼女の真意が掴めずに、「うん」とだけ答えて先を促す。
 彼女は、自信なさげな声音で続けた。
「あたしが急に走り出して、転んで、手を少し怪我したから、水筒の水で傷を洗って……その時ね、手のひらに土がついてたの。傷も、石畳にぶつけたっていうよりも、草で切ったみたいな……」
 段々と小さくなっていく声を聞きながら、サリュートアは自らの服にも触れてみる。
「……土がついてる」
 特にズボンの足や尻部分に、多くついていた。少し濡れたような感触もあり、その指を鼻先に近づけてみる。
「これ、草の汁だ。何で……?」
「今、ついたんじゃねーの?」
 バートが同じように服を触ったり払ったりしながら言うが、サリュートアは大きく首を振った。
「俺たちは、一度もここに座ってないのに?」
「あ……」
 セシリアが、小さく声を漏らす。
「サマルダに来る時は馬車だったし、町に入ってからはずっと石畳の道だった。地面に腰を下ろしたりもしてないだろ?」
「街が変な迷路になっちまった時、下ろしたじゃねーか。土だって草だって、地面に落っこちてることだってあるだろ」
 バートはもう思い出したくないのか、身震いをしながら言った。
「それはなかった……と思います」
 そこで、セシリアが口を挟む。
「サマルダの道には、ごみ一つ落ちてなかったんです。少なくとも、私の見た範囲では。ずっと追っ手を警戒した生活だったので、そういうところまで見る癖がついちゃってるんですよね……手配書とか、尋ね人とかの紙がどこかにあったら、と思うと怖くて」
「それに、もう一つあるんだ」
「な、なんだよ」
 何だか不機嫌そうなバートの方は見ずに、サリュートアは周囲に目を向ける。
 辺りは少しずつ明るくなり、その容貌を徐々に現してきていた。
「サマルダに着いた時、緑のにおいがしたんだ。だから、近くに公園とか、緑が集まってる場所があるのかと思ってた。でも……」
 町を歩き回っても、そんなものは見当たらなかった。
 もしかしたら、見落としていただけかもしれない。しかしそのにおいは町に入ってすぐ、あんなにはっきりと感じたのだ。そんなに離れた場所にある香りが漂ってくるとも思えない。
 そして、アストリアーデだけが感じていた異変。
 彼女だけは、最後まであの町の食べ物も、飲み物も口にしようとしなかった。
 その一方で自分は遠慮なく飲み食いをし、次第に帰ることばかりを考えるようになっていた。
「……あの町も、迷宮も、幻だったんじゃないかな。そうやって、ヨセミスフィアを守ってた」
 少女は、あの場所が強固に守られていると言っていた。
 そして、『幻影師』と呼ばれた人々の能力のことを考えれば、その答えが一番収まりがよい気がする。
「つまり俺たちは、揃いも揃って、夢でも見てたってことか? まさか」
「私は、サリュートアさんの意見を支持します」
「お前もかよ!? マジで言ってんの?」
 セシリアは少し笑って、それから言った。
「マジですよ。……それに、ずっと言ってたでしょう? アストリアーデさんは。あの町がおかしいって」
「セシリアさん……」
「それとも、もっと上手い説明ってバートさん、出来ます? 緑の香りや、付着した土や草の汁、町が突然迷宮に変わって、人も一人残らず消えて、この付近にも全く町の影すらない理由」
「わーったわーった、俺にはムリだから、いいよそれで」
 バートは降参とでもいうように両手を上げ、ため息をついた。
「ま、あのガキも体透けてたし、そんなとこだよ、きっと」
 その時、目の端に触れた光に皆、顔を上げる。
 空ににじんだ朱の色が、じわじわと周囲に染み行くように広がった。
 朱から橙へ、そして金色へ――気色は瞬きをしている間にも入り混じり、押し合い、揺らぎながら姿を変え、魚のような雲の輪郭を浮かび上がらせ、染め上げていく。
 魚たちは悠然と、身に纏った光の波をかき分けて空を泳いだ。
 空の明るさが増すにつれて、峰々の姿がはっきりと見え、やがて一際明るい金の円が、こちらを覗きこむかのように顔を出す。
 そこから投げかけられた光の筋は、目覚めを待つ草の一本一本を撫でながら、その数を増して行った。
 鳥たちは一日の始まりを楽しげなさえずりで彩り、木立は伸びをするようにさわさわと揺れ、朝露を払う。
 やがて一際太い光の筋が、稜線からこちらへと向かって真っ直ぐに伸び、道となった。
「綺麗……」
 セシリアが呟く。バートも小さく息を漏らした。
「……もったいないね」
 サリュートアが目を向けると、アストリアーデは顔を朝日に向けたままで続ける。
「こんなにすごい景色がきっと何度もあったのに、今まで沢山見過ごしてきたんだなって思うと」
 日の光に照らされた妹の横顔は、随分と大人になったように見えた。
 守ってあげなければと思っていたのに、気がつけば彼女は、自分が思っているよりもずっと遠くへ行っている。
 それが誇らしいようでもあり、淋しい気もした。
 もし、彼女がまた思い詰め、身動きできなくなった時、今度は自分がこう言ってやればいい。
 そんなに考えすぎなくても、きっと大丈夫だよ、と。
 暁の空は、彼方へと続いている。
 サリュートアは、それを見ながら言った。
「帰ろう。俺たちの家へ」

 ◇

 一行はヒスタまで何とか戻り、そこから再び馬車へと乗る。
 もう追っ手は現れないのだから、びくびくする必要もなかった。
 ヒスタでも、その他の町でも、さりげなくサマルダのことを話題にしてみたのだが、あの町のことは、すでに忘れられ始めていた。
 サマルダのことを「大したことのない、普通の町」だと言っていた人々は、その代わりに「どこにあったか忘れた」「そんな町あっただろうか」という言葉を口にする。
 あの場所は迷宮と幻の町だけではなく、周囲の人々によっても守られていたのかもしれない。
 そのうち人々の記憶からも完全に消え、地図からも姿を消すことになるのだろう。

「お世話になりました。落ち着いたら、またお会いしましょう」
 スウォルトの自宅がある町で、セシリアは言って頭を下げる。
 十字路に立つと、あの時の騒動が思い出されて、少し落ち着かない気分になるが、そこには日の光の下、普通に行き交っている人々の姿があるだけだ。
「またな! 気をつけて帰れよ!」
 その隣に立って手を上げるバートに、彼女は目を瞬かせた。
「バートさんは行かないんですか?」
 すると、彼の方が驚いたような顔をする。
「バーカ、こっちにも護衛が要るだろ! また何かあったらどうすんだ」
「でも」
 セシリアは、双子を交互に見た。
「うん、その方がいいよ。俺たちはもう、真っ直ぐ帰るだけだから」
「あたしたちは元々二人だったんだから、大丈夫だよ。……嫌なら嫌って言った方がいいと思うけど」
 その言葉にぎょっとして向けられた視線にセシリアは笑い、首を小さく振る。
「いえいえ、私も助かります」
 今度はほっと胸を撫で下ろしたバートに、サリュートアは向き直った。
「本当はオーファさんにも挨拶したいところなんだけど、また改めて」
「ああ、一回帰ったほうがいいって。でっけーヤマになりそうだし、もしかしたら、俺たちが先にマイラに行くことになるかもな」
「そしたら、一緒にご飯でも食べようよ!」
 笑顔で言ったアストリアーデに、バートは親指を立てる。
「ああ、旨い店教えてくれよ? 色が普通のヤツな!」

 ◇ ◇ ◇

「着いたね」
「……うん」
 ようやく辿り着いた我が家。
 こみ上げてきた感慨深い思いが波のように引いていくと、今度は不安や怖さが打ち寄せてくる。
 二人とも、中々ドアへと近づけず、顔を見合わせては、また家へと視線を戻すことを繰り返した。
 やはりここは兄として先に行かねばと覚悟を決め、サリュートアが一歩を踏み出そうとした時、突然、大きな声が上がる。
「お坊ちゃま! お嬢さま!」
 声の主は、ジェイムだった。
 顔をくしゃくしゃにした彼は、こちらへと駆け寄ってくる。
「ジェイム」
「あの」
 二人が何かを言うよりも速く到着した彼が、その体をまとめて強く抱きしめた。
「ジェイム、その」
「ジェイム……痛いよ」
 それは少しきつかったけれど、とても温かい気持ちにさせてくれる。
「お二人とも、少し、お痩せになりましたか。良くご無事で……」
 しばらくそうした後、彼は二人から体を離し、顔を確かめるように見た。
 下がった目じりからは涙が溢れ、一筋、また一筋と頬を伝う。
 それを見ていた二人の目にも涙が浮かび、アストリアーデは堪えきれなくなって、彼に抱きついて泣いた。
「本当に、私がどれだけ心配したことか……」
 二度目に体を離した時、今度は説教が始まる。
 とても心配をさせてしまったから、それは仕方がないと思ったし、叱られることでさえ懐かしいと感じられて、心を揺さぶった。
 だが、神妙にしている二人を見て、何故かまたジェイムは泣き出してしまう。
 二人は何だか居た堪れなくなり、彼を宥めながら、ようやく家の中へと足を踏み入れた。
 久しぶりの我が家は、少し雰囲気が変わったような気がする。
 エントランスホールには、母が立っていた。
「お帰りなさい」
 まるで、ちょっとそこまで出かけてきた子を迎えるようにミストは言ってから、二人に近づき、それぞれを抱きしめる。
「二人とも、大きくなりましたね」
 それから彼女は、ホールにあるテーブルを手で示した。
「ジェイムのお説教が長いから、その間にお茶を淹れておきました」
 いつもの、サラウェアの優しい香りが微かにする。家に帰ってきたのだという実感が、さらに強まったような気がした。
「大体、奥様も――」
「さ、頂きましょう」
 矛先が自分にも向いたのを知り、ミストはくるりとテーブルの方を向くと、さっさとそちらへ歩き出してしまう。
 と、その足が唐突に止まり、また体がこちらへと向けられた。
「そうそう、手紙をありがとう。サリュートアから手紙を貰うなんて滅多にないことだから嬉しくて、額に入れて飾りましょうって言ったら、ヴィンもジェイムもやめろっていうの。あなたはどう思う?」
 にこやかに問われ、サリュートアは言葉に詰まる。
 そんなのは勘弁して欲しいというのが正直なところだが、この状況でそれは言い辛い。
「……あのね、お母さん」
 代わりに口を開いたのは、アストリアーデだった。ミストは首をかしげて彼女を見る。
 ここに来るまでの門も、玄関のドアも手で開けなければならなかった。
 家の雰囲気が変わったように思ったのは、天井が光っておらず、幾つものランプが置かれていたからだ。
 それは『遺産』が止まった証拠に他ならない。
「明かりとか、ドアが動かなくなったりとかね……あたしたちのせいなの」
 恐る恐る言った彼女に、母は微笑んだ。
「多分そうだろうと思っていました。でも素敵ですよ? ランプの明かりで過ごす夜も、薪で焚くお風呂も」
 大体ヴィンとジェイムがやってくれるのだけれど、と付け加えた彼女の目が、ふと部屋の隅を見た気がし、アストリアーデも何気なくそちらを見る。
 一瞬、息が止まった。
 そこには、真っ白な狼が座っていたからだ。
 アストリアーデは目を見開いたまま、しばらくそちらを見ていたが、やがて表情を柔らかくする。
「ずっと、あたしたちのこと見守っててくれてたの?」
 狼は何かを言いたげな表情でこちらを見た。
「そうみたいですね」
 しかし何も語らない彼の代わりに、ミストが答える。
「あなたたちが出かけてから、ケインの姿も見えなくなったから、きっと一緒だと思ったのだけれど」
「ケインって言うんだ。あんまりよく覚えてないんだけど、小さい頃は一緒に遊んでた気もする。……どうして、見えなくなっちゃったのかな?」
「あなたたちは、今までもずっと彼を見ていましたよ」
 母は、穏やかに言う。
「でも、それを忘れていこうとするあなたたちを見て、わたくしたちも、話題に上らせることをしなくなりました。必要な時が来たら、きっと思い出すと思ったから」
 そして、また微笑んだ。
「さっきから二人とも、何の話をしているの?」
 サリュートアは戸惑いながら二人と、部屋の隅を交互に見る。
「サリュートアにもまた、わかるようになるよ」
 アストリアーデは、兄の方を向いて言う。
 彼もまた幼い頃、ケインと一緒に遊んでいたのだろうから。

 夜になって帰宅した父は、二人を見て、やはり平然と「お帰り」と言った。
 まるで数ヶ月ぶりの家族の再会は、ジェイムのところで全て終わってしまったかのようだ。
 疲れたと言って、ソファーにどっかりと腰を下ろした父に何かを言おうとして、サリュートアの頭に沢山のことがよぎる。
「……何で父さんは、俺のことを『サリュー』って呼ぶの?」
 そしてようやく口から出てきたのは、そんなどうでもいい質問だった。
「何でって……」
 ヴィンスターレルはこちらに視線を向け、口を開く。
「カッコよくないか? いい感じっつーか」
「……それだけ?」
 思わず聞き返すと、何かまずいことを言ったと思ったのだろうか、父はソファーに座りなおし、弁解を始めた。
「え……まあ、サリュートアって長いだろ。だから呼びやすくなるし」
 サリュートアは何も言えずに、それを眺めている。
「そ、そんなに嫌だったのか? それなら早く言ってくれれば」
 慌てている父の姿を見ていたら、急に胸の奥から可笑しさがこみ上げてきて、口から飛び出した。
 そうして一旦笑い出すと、止まらなくなる。
 そんなサリュートアを見て、父は呆気にとられたようにぽかんと口を開けていて、その表情がまた、可笑しくてたまらない。
 ――自分で勝手に思い込んで、勝手に傷ついていただけだった。
 理由を聞くことなんていつでも出来たのに、勝手に怖がって、それをしなかった。
 呼吸が苦しく、腹筋も痛む。こんなに笑ったのはいつぶりだろう。
 ようやく落ち着いてきて、出てきた涙を手の甲で拭いながらサリュートアは言った。
「いや、嫌じゃない。――結構気に入ってるよ」

 ◇ ◇ ◇

「元気そうで良かった」
 それから一月後。
 中央教会に程近いカフェのテラス席で、アストリアーデはデザートをつつきながら言う。
 秋も深まってきたが、今日は天気がよく、日差しも暖かかった。北の町は、もっと寒いのかもしれない。
 少し状況も落ち着いてきたので、ミューシャに会いに行ってみようと思い立った彼女は、サリュートアも誘って、学校の帰りに教会へと向かった。
 彼女は忙しくしているようだったが、守りの少女が呼びにいくと、あの時のままの笑顔で快く迎えてくれた。
 あまり長く話は出来なかったが、それでも疲れが癒されるような、前向きな力を分けてもらえた気がする。
「ミューシャはね、大守長を目指してるんだって。冗談かもしれないけど」
「へぇ、やり手って感じだもんね。彼女」
「え、そうかなぁ……どこら辺が?」
 意外な反応が返ってきたので、アストリアーデは少し驚いた。彼女からすれば、気のいい女性にしか見えないからだ。
「うーん……何となく」
 サリュートアは曖昧な返事をし、ミルクティーのカップに口をつける。
 以前は何かしらの理由を滔々と語っていた彼だが、最近はそういった言い方をすることも多くなった。
「それよりさ、ミス・ヌーラの課題、早くやったほうがいいよ」
 ミス・ヌーラとは二人の担任で、『平凡』を表す『ヌーラ』という言葉を連発する彼女の口癖からついたあだ名だ。
 採点が厳しく、中々良い評価をくれない。
「わかってるけどさ……ずっと、ずっと、ずーっと課題続きなんだもん。仕方ないのもわかってるけど」
 はぁ、と大きくため息をつき、アストリアーデはテーブルに突っ伏す。
 学校にもずっと行っていなかったので、やらなければならないことが山ほどある。
 そのことを考えると、ミューシャからもらった元気も、一気に使い切ってしまったかのようだった。
 そんな彼女を見て、サリュートアがあきれたように言う。
「君がちゃんとやらないと、俺にもしわ寄せが来るんだから。今日だって癒しが欲しいっていうから、教会に行って、カフェで一緒に課題をこなすっていうプランなんだろ?」
「はーい、わかってまーす」
 言い方にカチンと来るものがあったが、事実なので仕方がない。
 山盛りの課題が出ているのは同じなのに、サリュートアはアストリアーデの面倒も見てくれているし、先延ばしにしたところで、結局後で泣きつくことは目に見えている。
「……そういえば、聞いた? あたしたちがいなかった間、どうやって学校を誤魔化してたか」
「さぁ」
 課題をやる覚悟をようやく決め、バッグの中から出しながら言うと、サリュートアは首を捻った。
「お母さん、ミス・ヌーラに『二人とも修行に向かいました』って言ったんだって」
 アストリアーデはミストの澄ました顔と声を真似する。
「ミス・ヌーラがそれに文句言ったら、『学校の授業よりも、当家の修行が劣るという根拠はあるのでしょうか?』って切り返したらしいよ」
「はぁ、流石というか何というか」
 二人のやり取りや、それに気を揉む周囲の人々の姿までありありと想像出来てしまい、何ともいえない気分になる。
 でも、皆それぞれのやり方で、自分たちがいない間、いつ帰ってきても良いような準備をしてくれていた。
 それには感謝の気持ちが湧いたが、代わりに積まれた課題には、ため息しか出ない。
 元々あまり理解できていなかった授業も、出ていなかった分、さらにわからなくなっていた。
「気が重いよ……」
 サリュートアは頭いいからいいよね、と続けそうになり、思いとどまる。
 授業に出ていなかったのも同じだし、以前からアストリアーデが遊んでいた時も、兄はきちんと授業を聞いて、勉強もしていた。
「正直、俺もだけどね」
 ぼそりと言ったサリュートアと目が合い、お互いの情けない表情に、思わず二人は吹き出す。
「リシュカさんには、会いに行かないの?」
 サリュートアは、あれからリシュカと手紙をやり取りしたと言っていた。
 彼女の家にあった『遺産』も、動かなくなったようだ。
「……うん、今度の連休に会おうってことになってる」
 サリュートアの答えは、何故か歯切れが悪い。
「アドルアの森は遠いし、それならメザで会おうかってことになったんだけど……」
「えーっ!? じゃあ、オーファさんたちのとこにも行くの!? バートさんとセシリアさんは!? あたしも行きたい! 邪魔しないから、絶対!」
 大きな声を出したアストリアーデに、サリュートアは人差し指を立て、静かにと合図をする。
「でもほら、もう少ししたら、みんなもマイラに来るって言ってたし……」
 あれからセシリアの父、フォルスタ・リーヒャエルドの秘書をしていた男を含めた数人が、殺人の容疑で逮捕された。
 これから裁判や、リーヒャエルド家の今後について話し合うため、セシリアとバート、そしてスウォルトやオーファもマイラへとやってくるという。
「課題――課題だよね!? その日までに提出しなきゃいけない分、絶対終わらせるから!」
 アストリアーデは身を乗り出し、サリュートアにぐっと顔を近づけて力説した。
 メザまで行くとなると、今日のように気軽に出かけるというわけにはいかない。
 本音としては課題を放り出して行きたいところだったが、流石にそれは出来なかった。
「兄ちゃん!」
 その時、突然通りから声がして、二人ともそちらに顔を向ける。
 黒髪の少年が、こちらに向かって手を振っていた。
 アストリアーデの知らない人物だったのでサリュートアの方を見ると、彼は柔らかな表情で手を振り返している。
「レンじゃないか。もうこっちに来たの?」
「うん、住む場所も決まったんだ」
 そう言って、レンと呼ばれた少年はこちらへと駆け寄って来た。
 それからアストリアーデに向かい、小さくお辞儀をする。
「妹のアストリアーデだよ。こっちはレン。前に話しただろ? メザの町で会ったんだ」
 確か、造花を作るのが上手だという少年だ。
「へぇ、兄ちゃん、妹さんがいたのか。よろしく!」
「あ、こちらこそ」
 にこにこと笑うレンに、アストリアーデも笑みを返したが、逆はあっても、サリュートアの友達に紹介されるという経験はあまりなかったので、何だか少し緊張してしまう。
 二人が挨拶を済ませたのを見て、サリュートアはレンに尋ねた。
「お母さんの具合はどう?」
「うん、お医者にもちゃんとかかれてるし、どんどん良くなってるって。そのうちこっちで一緒に暮らせるかもしれない。全部兄ちゃんのおかげだよ。本当にありがとう!」
「……借りは、返せたかな」
 サリュートアがぼそりと言うと、レンは「借りって?」と不思議そうな顔をしてから、やがて笑い出した。
「ああ、そんなの気にしなくていいのに。それならオレの借りのほうが大きすぎるよ。兄ちゃんってやっぱ変わってんなぁ」
「そうかなぁ……ま、そう思ってくれてるならいいけどさ」
「そろそろ行かなきゃ。親方に呼ばれてるんだ。えっと、住所はジェイムさんが知ってると思うから、今度遊びに来てよ。またね!」
 彼はそう言ってから、急いで走って行く。
「忙しそうだなぁ」
「ジェイムも知り合いなの?」
 繋がりが良くわからなかったので聞いてみる。サリュートアは頷いた。
「レンは手先が器用だから、それを活かして何とかならないかって、ジェイムに聞いてみたんだ。そしたら、知り合いの職人に、人手が欲しいっていう人がいたらしくて」
 そうして彼は、ほっとしたように息を吐く。
「でも良かった。病気のお母さんも良くなってるみたいだし」
 そんな兄を見ていて、アストリアーデは自分の中にも温かなものが込み上がってくるのを感じた。
「お手柄だね。……なんか失礼なことはしたんだろうけど」
「えっ、何でわかるんだよ」
 怪訝そうにこちらを見るサリュートアに、アストリアーデは笑う。
「大体わかるよ、サリュートアのことだもん。レンくんは、学校には行ってないの?」
「ずっと働いてるみたいだからね」
「じゃあ、サリュートアが教えてあげれば? 字――とか、色々」
 そう口にした時、ウィリスやマーサと一緒に、字の勉強をしたことがふっと浮かぶ。
 サリュートアなら、もっと上手く教えられるだろう。
「それもいいかもな。……でもまずは、今の生徒が何とかなってからじゃないと」
 そう言って彼は、アストリアーデを見る。
「……はい、ちゃんとやります。手伝ってもらえて感謝してます」
 彼女は首を縮め、頭を下げた。
 殊勝な彼女の姿が面白かったのか、声を上げて笑った兄につられて、アストリアーデも照れたように笑う。
 それから彼女は、通りを歩く人々を眺めた。人も、街も、ヨセミスフィアが動きを止める前と変わらないように見える。
 長い旅の中、色々なことがあった。
 ウィリスのことを思い出せば、今でもまだ胸が締め付けられるような思いがする。けれども同じくらい、楽しかったことも思い出せた。
 あれから少しでも前に進み始めて、様々なことが変わったと自分でも思っていたけれど、またこうして日常に戻れば、結局今までと同じようなことで悩んだり、迷ったりしている。
 それでもアストリアーデには、世界が前よりも少しだけ、色づいているように見えた。

 ◇ ◇ ◇

「おい」
 冷たい石の壁に、低い声が反響する。
 暗い部屋の奥で、身じろぎする音がした。
「手紙だ」
 格子の隙間から、小さな封筒が差しこまれる。封は切られ、検閲済の印がつけられていた。
 女はゆっくりと顔を上げ、外に向かって軽く頭を下げてから、皺だらけの手で、それを受け取る。
「このお姫様っていうのは、誰のことなんだろうな?」
 女は黙したまま、声の主を見返した。
 もし彼女が言葉を発せられたとしても、同じように答えは返さなかっただろう。
 舌打ちをした男が離れていく足音をしばらく聞いてから、彼女は封筒の中身を取り出し、じっと見た。
 手紙は短いものだったが、それを噛み締めるかのように、ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて読んでいく。
 やがて女は涙を流し、嗚咽を漏らして泣き始めた。
 それは、彼女がここへ来て初めて見せた、感情らしい感情だった。

 *

 親愛なるマーサへ

 お元気ですか?
 アストリアーデは、お家に帰って、毎日大忙しです。

 アストリアーデは、マーサと、お姫さまと出会って
 楽しく歌をうたって、おいしい料理を食べて、とっても幸せでした。

 ありがとう。

 アストリアーデ

 *

<了>

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