わたしはアリス。

 おや、お目覚めかい? アリス。
 どうしたんだい? 浮かない顔をして。
 旅行に行くんだろう? 旅行は楽しいものだから、もっと楽しい顔をしなくちゃいけないよ。

「わたし、どこへも行けない」

 何を言っているんだい? アリス。キミはどこへだって行ける。
 キラキラ輝く夕日色の宝石だって、王子さまのキスだって手に入るんだ。
 願うだけで。
 望むだけで。
 思うだけで。

「いや! 真っ暗だわ。ここはどこなの? わたしをここから出して!」

 人聞きの悪いことを言わないでおくれ、アリス。
 それは、キミが真っ暗であることを描いたからだよ。
 嘘だと思うならソウゾウしてみて。
 暖かなロウソクの灯りを。

「本当だわ。明るくなった」

 そう。何もかもがキミの思うがまま。
 湖畔のお城も、甘いチェリーパイも、空色のドレスもみんな。

「でも」

 でも?

「わたし、帰らなきゃ」

 どこへ?

「どこって――お家よ」

 誰の?

「わたしの」

 わたし?
 キミは誰?

「わたしは、アリスよ」

 そう。キミはアリス。
 でも、どうしてキミはアリスなの?

「どうしてって……わたし、生まれたときからアリスだったもの」

 キミがアリスだって誰が決めたんだい?

「お祖父さまが名前をつけてくださったのよ」

 他には?
 何がキミをアリスだと証明する?

「お母さまも、ばあやも、エリックも、マーサも、ハンナも……みんな、わたしのことアリスだって認めてくれるわ」

 その人たちがみんないなくなったら?
 誰がキミをアリスだと認めてくれるんだい?

「お役所に行けば、わたしの記録が残ってるわ」

 じゃあ、それもなくなったら?

「そんなこと、あり得ない。誰かがわたしをアリスだって認めてくれるもの」

 本当にそう思う?
 いいかい、アリス。キミがアリスでいられるのは、他人のおかげなんだよ。キミをアリスとして認識している人がいるからこそ、キミはアリスなんだ。
 おかしいとは思わないかい? 自分が自分であることを証明できないなんて。キミが本当に独りぼっちになったら、キミはアリスどころか、誰でもなくなる。
 おや、少し驚かせ過ぎたかな。
 もし、誰の証明もなく、いついかなる時でも、キミがキミでいられる場所にいられたら素敵だと思わないかい?

「それは……思うわ」

 どうか思い出して。
 キミは、そこにいたことがあるんだ。
 キミが本当に帰るべきなのは、そこなんだよ。

「でも――いやだわ。わたしは、みんなと一緒にいたいもの。みんなとお別れするのはいや!」

 聞き分けのない子だね、アリス。
 キミは言っただろう? 『わたしはあなたで、あなたはわたし。誰もが奥底で繋がっているのよ』、と。
 みんなが繋がっているなら、ひとつなら、何の問題もないじゃないか。
 個にこだわるあまり、争いや憎しみや悲しみや、欲にまみれていることは、愚かだと思わないのかい?

「思うわ。でも……わたしにはやらなければいけないことがあるもの」

 へぇ、それは?
 本当に、キミでないといけないのかな?

「わ、わたし……朝起きたらお庭のデイジーにお水をあげるの。それから、スージーにもミルクをあげなきゃいけないわ。ばあやが朝食を作るお手伝いもするし……そう、学校に行かなきゃいけないの。スミス先生はちょっと意地悪だから、頑張って予習をしなきゃいけないし、マーサたちとショッピングに行く約束もした。お母さまのお誕生日ももうすぐだから、プレゼントをあげなきゃいけないわ。わたし、今年はばあやに編み物を教えてもらって、マフラーをあげるつもりなの。お母さまには赤が似合うから、今から赤い毛糸を探しておかなきゃいけないし、それから……それから……」

 わかったよアリス。
 花に水をあげるのも、猫にミルクをあげるのも、朝食の手伝いも、学校も、ショッピングの約束も、手編みのマフラーのプレゼントも、みんな大事だね。
 だから、もう泣かないで。

 おや、もう朝だね。
 さようなら、アリス。
 また会えますように。

 見慣れた天井。でも、とても懐かしい気がする。
 どうして泣いているの? ……お母さま。
 アリス。
 わたしの名前。

 わたしは、アリス。
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