何という怒涛の展開。
しかし、女の子の家に上がるということで、少し緊張気味で入った俺を待っていたのは『事務所っぽい場所』としか表現しようのない部屋だった。
向かって奥の壁は一面をスチール製の棚が占拠していて、中央にはレトロ調の応接セット、左奥にPCの載った事務机、飾り気のない白い壁には古めかしい鏡がかかっているだけだ。
俺は応接セットの四つあるソファーの一つに座らされ、二人は飲み物を用意すると言って、さっさと出て行ってしまった。
手持ち無沙汰になった俺はソファーから立ち上がり、部屋の中をうろうろとし始める。
PCを勝手に見るのは流石にあれなので、反対側の壁にかかっている鏡を見てみたが、特に何の変哲もない鏡に見える。アール――デコとかヌーヴォーとか、よくわからないけどそんな雰囲気のデザインだ。
棚の中もガラス扉の外から覗いてみると、童話の全集や絵本、民話、中身がよくわからないファイルが隅々まで詰まっていた。
童話――か。
やっぱ、そこが関係あんのかな。
「おまたせー」
その時、ノックもなしに扉が開いた。
「あっ! やっぱお前――」
「えへっ、ごめんね。今からちゃんと説明するから」
俺は、やけに明るい調子の立木を睨む。
彼女は制服からカットソーとパンツに着替え、眼鏡を外し、髪は――ツインテールへと変えていた。
その後ろにトレイを持った和葉さんが続き、テーブルの上に飲み物を置く。こちらは服装や髪型に変化はない。
「お好きなのをどうぞ。まなちゃんも。とにかくまず、座りましょうか」
言われて俺は席に戻り、アイスコーヒーを取る。
立木は向かいに座り、和葉さんはその隣へと腰掛けた。
「ええと、この度は何というのか――巻き込んでしまってごめんなさい」
そして、静かに頭を下げる。彼女のちょっとした仕草の中にも、しなやかさが見えるようだった。
彼女も、高校生なのかな。大人っぽくも見えるけど。
長い髪の動きと共に、いい香りが微かに漂ってきて、俺は妙に緊張してしまう。
「い、いや。俺の方こそ、自分から巻き込まれたっつーか、俺のせいで危険な目にあわせちゃたりもしたみたいだし……すみません」
しばしの間、気まずい沈黙が流れる。
それを破るように立木はパンと手を叩き、明るく言い放った。
「はい、お互いごめんなさいしたし、解決解決!」
ストーカー扱いしたことへのごめんなさいは無しですか。
訴えかける俺の視線を無視し、彼女はグラスに入ったオレンジジュースを飲んだ。
「ところであんた、和葉さんが戦ってたとこ見たんでしょ? 何ともなかったの?」
「何ともって……そりゃ、驚いたけど。だから説明を――」
「和葉さんも、気づかなかったんだよね?」
「ええ」
話を振られ、和葉さんは頷く。二人で納得されても、俺にはさっぱりなんだけど。
そんな思いも空しく、立木は無言でソファーから立ち上がると、壁にかかっている鏡の前まで行く。
何をするのかと見ていたら、鏡に呼びかけ始めた。
「鏡よ鏡、この部屋にいる『紡ぎ手』はだーれ?」
すると、鏡の表面が波打つように青白く輝き出す。
そして、立木と、鏡の前に立ってすらいない和葉さんの姿を順に映し出し、柔らかな女性の声を発した。
『それは「白雪姫」と、「いばら姫」です』
これって――魔法の鏡なのか?
鏡が告げたのは、やっぱり有名な童話のタイトルだ。
「うーん……」
立木は困ったような声を上げる。
俺もそんな声を上げたい気分です。
「反応なし、か。佐倉からはそんな感じしないしなぁ。まだ目覚めてないってことなのかな?」
そして、当たり前のようにさらっと呼び捨てにする。ま、いいけど。
「目覚めるって、何が?」
「あんたが。あんたの能力が」
「はぁ」
曖昧に返事をしてから、俺は考える。
今、重大なことを言われたよな。絶対。
つまり、俺もこの二人や、あの金髪ギャルと同じような能力を持ってるってことなのか?
「……それ、マジ? ホントのこと? 冗談じゃなく?」
「間違いないと思う」
「すげー!」
やっぱりさっぱりわからないけど、全然実感湧かないけど、俺は俄然ワクワクしてきた。
すげーじゃん、俺も和葉さんみたいに戦ったり、立木みたいに不思議なことを察知したり出来るのか。
だが、素直に喜ぶ俺に、微妙な視線を二人は向けてくる。
「な、なんだよ」
「いや、お気楽でいいなーと思っただけ」
「そんなに、素晴らしいものじゃないかもしれないわ」
立木だけじゃなく、和葉さんまで。
「え……でもさ、すげーじゃん、やっぱ人にない才能? っていうか」
「ま、いいよ。きっとそのうちわかるから」
俺の反論をさらさらっと流し、立木は指先をくるくるさせながら言う。
なんだそのくるくるは。バカにしたくるくるか。それとも別の意味でもあんのか。
「なかった? なんか前触れみたいなの。あと、妙な夢を見るとか、声が聞こえるとか」
「そんなの……心当たりないけど」
「ダメだこりゃ」
「諦めるの早すぎだろ! もっと掘り下げろよ」
「じゃあ、以前に、今回みたいな状況を目にしたことは?」
代わって和葉さんが聞いてくれる。
しかし、やっぱり身に覚えがない。
「ない……と思いますけど。でも、何となく見たことがあるような気がしたというか」
「思い込みだわ。それ」
こちらは立木の言葉。
その言い方には腹が立ったものの、さっき掘り下げてもらっても何も出てこなかったので、今度はぐっと堪えて黙る。
そんな俺を見て、和葉さんはくすくすと笑った。
「『紡ぎ手』の能力って大抵は、はっきりとした自覚があるものだから」
「でも、俺が何らかの能力を持ってるってことは、わかるんですよね? 立木が言ったみたいに、雰囲気でわかるとか?」
「呼び捨てにすんな」
いや、お前もだろ。
今度は俺の視線を上手く避けられず、彼女はこほんと咳払いをし、話を続けた。
「ま、いいや別に。――あのね、もしあんたが一般人だったら、和葉さんと『ラプンツェル』が気づかないはずがないの」
「何で?」
「すっごく気持ち悪い! ――じゃなくて、気持ち悪くなるから」
今度は指先を俺に突きつけながら言う。
こいつ学校の時とキャラが全然違うんだが、ツインテールになると変わる設定とかなのか。
「ほんとにね、うわぁぁっっ! って声を上げたくなるくらい、耐えられない気持ち悪さなんだよ。能力を使うための集中力も切れちゃうし、あんな感覚を何度も味わいたいのは、変態だけだと思う。だから『紡ぎ手』のほうも、出来るだけ一般の人の目に触れないように、色々やるわけ」
確かに俺がずっと見てても、普通に戦い続けてたもんなぁ。
でも――。
「そもそも、何で戦ってたんですか?」
さっきから二人が『紡ぎ手』って呼んでるのが、能力を持ってる人のことだというのはわかったが、『紡ぎ手』同士が戦ってる理由ってのが見えてこない。
権力争い? 和葉さんはそういうタイプには見えないけどな。
俺が顔を向けると、彼女は頭の中を整理するかのように少し黙り、それからまた口を開いた。
「……世界では毎日、色々なことが起こってるでしょう? 事故や、事件も。それは、人の力で引き起こされることもあるけれども、『紡ぎ手』と呼ばれる能力者によって引き起こされる場合もある」
彼女が物憂げに語る様子というのは、何だかとても絵になる。
「人によって引き起こされるものならば、人によって対処できる。でも、物語の領域で起こったことは、人の領域ではどうにもならない。人知れず誰かが傷つけられることも、真実が明るみに出ないまま終わることもあるわ」
「警察の捜査でも迷宮入りするだけじゃなく、関係ない人が容疑者になっちゃうこともあるしね。それってやっぱほっとけないじゃん。同じ『紡ぎ手』としては」
立木も戻ってきて、どさっとソファーに腰を下ろした。
「だからそういう『紡ぎ手』を発見次第、『いばら姫』で、能力を眠らせているの」
なるほど。おやすみと言っていたのは、『ラプンツェル』の能力そのものにということなんだな。
闇に紛れて人助けみたいで、益々カッコいいじゃないか。
「お、俺も、なんか手伝います! 何が出来るかはわかんないけど、これも何かの縁ってことで!」
「でも、危険が伴う道よ」
そう言われ、俺は昨日の戦いを思い出す。
確かに衝撃的な体験だった。だけど使命感のようなものがそれに勝っていた。
これはきっと、俺にしか出来ないことだ。
「大丈夫です。やってみせます!」
ぐっと拳を握った俺に、和葉さんは微笑んだ。
「ありがとう。助かるわ」
「ま、いないよりマシかー」
立木は憎たらしい言葉を吐きつつ、ぴょこんと立ち上がると、また鏡のところへと向かう。
「じゃ、始めますか」
和葉さんはというと、何故かデジカメを手に待機していた。
立木は何度か深呼吸をしてから、鏡に向かって呼びかける。
「鏡よ鏡、今、この近辺で能力を使ってる『紡ぎ手』は?」
そういえばそれって白雪姫じゃなく、女王の能力じゃないのか。
でもそれを言ったら、いばら姫もそうなのかもしれないけど。
『それは、「鉄のハンス」です』
やがて、鏡の表面が波打つように輝き始め、大学生くらいだろうか。地味な色のキャップを目深に被った男の姿を映し出した。
今回は静止画ではなく、動きがある。場所には見覚えがあった。花泉公園だ。
男の座っている木陰のベンチの向こう側に、その名の由来となっている、 睡蓮の浮かぶ小さな池が見える。
――と、突然そこにかかっていた丸い橋が、崩れて落ちた。
「あっ」
ちょうど橋の上にいた人が、池へと落ちたようだ。
音声は出ないようで、現場の音は伝わっては来ないけれど、突然のことに周囲も驚いているように見える。
池はそれほどの深さはないから、溺れてしまうということはまずないが、まだ泳ぐのには早いし、濁った池に落ちるのは気持ちのいいものではないだろう。
「何だ、あれ――?」
彼に手を貸そうとする周囲の人に混じって、人型をした大きな黒い影が走るのを俺は見た。
その間に、ベンチに座っていた男は歩き去ってしまう。
「多分、あの影が『鉄のハンス』だね。あれが橋を崩したんだよ。――和葉さん、撮れた?」
立木は言って、振り返る。和葉さんは笑顔で頷いた。
「私たちも向かおうか」
「ですね」
「えっ? あ、あの」
二人はそう言うと、出かける準備をし始める。
俺もあたふたと支度をし、急ぎ出て行く二人を追った。
◇
俺たちが花泉公園に着いた頃には、管理者らしき人と、野次馬が池の周りに集まっていた。
さっき池に落ちた人の姿は、もう見当たらない。
「ねぇ、あの人」
立木が声を上げ、俺たちを手招きした。
そして、人だかりから少し離れた場所にうずくまっている女の人を示す。
「怪しいかも」
確かに、様子が変だ。池の方を気が抜けたみたいにぼんやりと見ている。
「話を聞いてみましょうか」
和葉さんも頷き、俺たちは、その人の所へと向かってみることにした。
「すみません」
かけられた声に、女性は弾かれたように顔を上げ、こっちを見る。
その様子は、栗色の毛とつぶらな瞳も相まって、震える小動物を思わせた。
「ごめんなさい、驚かせて。何かあったんですか?」
和葉さんの言葉に彼女はうつむき、小さな声で答える。
「……友達が、池に落ちちゃったんです」
「それは、心配ですね」
「あ、でも、大したことはなかったんです。濡れちゃっただけで……」
慌てて補足する彼女に、「よかった」と笑顔を見せてから、和葉さんは続けた。
「でも、何だか他にも心配事があるみたい」
その言葉に、女性は引きつったような表情を浮かべ、口を閉ざす。
それでも胸のうちを表に出したい衝動に逆らえなかったのか、やがて言葉を選ぶようにしながら、ぼそぼそと言った。
「最近、こういうこと、よくあるから、恐くて。付き合った人とか、友達とか……」
ああ、話が見えて来た気がする。
だが彼女は、その自分の言葉で恐くなってしまったかのように、また黙ってしまった。
「もう少し、詳しく聞かせてもらえませんか? 何か、力になれることもあるかもしれませんし」
「どんな話でも、ちゃんと聞くから!」
和葉さんの落ち着いた声に、立木の明るい声も加わる。
もしかしたら、今までも誰かに話して、バカにされたことがあるのかもしれない。
「うん……」
彼女は意を決したように、話し始めた。
◇
女性と別れて公園を出た後、何度か鏡に問いかけて探りながら、俺たちは『鉄のハンス』の居る場所へと向かう。
さっきの男は、コンビニの中をうろうろしていた。
「これから、どうするんですか?」
近くの建物の陰に潜み、様子を窺う俺たち。もうターゲットは店から出ようとしている。
「私が話をしてくるから、二人はここで待ってて」
「あっ、俺も行きます!」
和葉さんだけを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「作戦の邪魔になるから、あんたはここであたしと待機!」
しかしその熱い思いは、立木の冷たい一言により、あっさり砕かれた。
和葉さんはコンビニから離れようとするターゲットに近づき、物腰柔らかに、何やら話し始める。
ここからだと内容が聞き取れないので不安が募るが、始めは警戒していた男の表情も段々緩んできているのが見て取れるので、問題はなさそうだ。
しかし、こういった交渉も手馴れてるんだな。
しばらくの後、話がまとまったようで、二人は一緒に移動をし始めた。
――と同時に、振動音がした。立木の携帯だ。
「あたしたちも行こう。先回りしなきゃ」
彼女は携帯をリュックへと仕舞いながら言う。
やけに重そうだが、何が入ってるんだそれ。
「どこへ?」
「笹出にさ、廃工場あるでしょ?」
「そうだっけ?」
たまに通ることもある地区だが、あまり細かくは覚えていない。
「あるの! そこに行くよ。ここから近くて、人がいないから。そういう場所は、ある程度調べてあるんだ」
まあ、人目につかないほうがいいもんな。用意周到さに、俺は感心しきりだ。
俺たちは和葉さんたちの方を窺いながら、その場をそっと離れる。
◇
そして、廃工場。
時刻は18時を少し過ぎていたが、まだ空には明るさが残っている。
それでもどんよりと暗い空気を身にまとった工場は、それを押しのける存在感があった。
俺たちはコンクリートの敷地を抜け、工場の入り口付近に無造作に転がっていたドラム缶の陰へと隠れて、和葉さんたちの到着を待つことにする。
その上にはちょうど、開きっ放しの窓があり、中の様子を窺えるようにもなっていた。
――うわ、不気味。
「……で、ゆきちゃんからの伝言って?」
「人に見つかったら嫌ですし、中に入ってから話します」
そのタイミングで声が聞こえ、驚いた俺は危うく声が出そうになってしまう。
おたおたとしていたら、立木に服の袖を引っ張られ、強制的に座らされた。
和葉さんと『鉄のハンス』は、俺たちの近くを通り、そのまま工場の中へと入っていく。
男は何かを確認するように中を見回し、何故かほっとしたように奥へと進むと、こちらとは反対側の窓際にもたれかかった。
和葉さんは入り口を背にし、男へと向き合う。
「それで?」
急かす言葉に頷き、和葉さんは口を開いた。
「浜田さん、いますよね。ゆきさんと同じサークルの先輩の。夜、何者かに殴られて、怪我をしたっていう」
「――は?」
「他にも、ブロック塀が落ちてきて足の指を骨折した高野さん、さっき池に落ちた水谷さんは、ただのお友達だそうです。自転車を運転中、飛来した下着が顔に直撃し、転倒した方に至っては、単に道を尋ねられただけで、名前すら知らないと言っていました」
「ちょ――何の話をしてるんだよ、お前」
「あと、あなたと口論をしてた人が、後日松葉杖をついて登校しているのを見かけたことがあるそうです」
慌てる男に構わず、和葉さんは淡々と続ける。
余罪どんだけあんだよ。
「だから何の話をしてるんだって聞いてんだよ! ゆきちゃんからの伝言は!?」
「これらのことは、あなたがやったんですよね?」
「……お前、俺を騙したのか?」
「あなたが、やったんですよね?」
会話というよりも言葉のぶつけあいに、男はあからさまに苛立ち始める。
和葉さんも、もしかしたら怒っているんだろうか。
「うるせーよ! ぐちぐち言うんなら証拠出してみろよ証拠を! そんなのどこにもねーだろが!」
「他のはありませんが、今日の分は、ここにあります」
和葉さんはデジカメを取り出しながら男に近づき、プレビュー画面を鼻先へと突きつける。
男はそれを見て、小さく声を上げた。
「これ、なんで――写らない、はずじゃ」
「普通の方法なら写らないでしょうね」
「こんなの知らねぇ! 知らねぇよ! 合成だろ合成!」
乾いた笑い声を立て、あくまでシラを切ろうとする男に溜息をつくと、和葉さんは毅然と言い放った。
「私にはこの証拠だけでも十分なの。言い方を変えましょうか? 今までのことも、『鉄のハンス』がやったのね?」
男はぎりっと奥歯を噛んだ。それが答えなんだろう。
ヤツは横を向き、壊れた窓から外にある木へと向かって叫ぶ。
「鉄のハンス! 鉄のハンス! 鉄のハンス!」
和葉さんは無言で地面を蹴り、男と距離を取った。
すると今まで彼女がいた場所を、黒い人影が凄いスピードで通り抜ける。
どこからか現れた茨が男へと襲い掛かれば、黒い影はまたすぐに戻ってきて、それを打ち砕いた。
「――くっ」
そのまま踏み込んできた影を、和葉さんは茨の盾で辛うじて防ぐ。
力がぶつかり合った場所から急に森の風景が広がり、工場の中を深い緑に染め始めた。
「なぜ、人を傷つけるために能力を使うの?」
「あぁ? 俺の力なんだから、どう使おうが勝手だろうが!」
茨が縦横無尽に走り、それを黒い影が切り裂いていく。
数は茨のほうがずっと多い。だが、黒い影はとにかく速い。数で劣っていることをものともしない。
いや――もう一つある。
和葉さんは、戦う相手をなるだけ傷つけたくないんだ。
出来るだけ穏便に動きを封じ、眠らせるところへ持って行きたいと思っているはずだ。
でも相手には、そんな配慮はありはしないだろう。
それって、結構マズイことなんじゃないだろうか。
思わず立ち上がろうとする俺を、立木の手が引き止める。
わかってる。俺が今出て行ったところで、何も出来ないどころか、和葉さんをこの前みたいに危険に晒すことになってしまう。
――わかってるけど。
俺が体勢を戻しても、立木の引っ張る手は止まらない。
止まらないし、段々強くなってくる。
仕方なしにそちらへと目を向けると、彼女は、にっこりと微笑んだ。
「ははっ! 動きが鈍ってきたな! お疲れさん!」
男は口の端から笑い声を漏らしながら、和葉さんの動きを追う。
ヤツの攻撃や防御を担っているのは、黒い影だ。和葉さんも茨という点では同じだが、眠らせるためには多分、和葉さん自身が相手の近くまで行く必要があるんだろう。さっきから何度も男に近づこうとしては、それを阻まれている。
苦しい状況ではあった。だけど、あの時と違うのは、もう一人の『紡ぎ手』である立木がいて、俺にもまだ出来ることがあるってことだ。
「行くよ」
小さく声をかけられ、俺は工場の中を見たまま、右手を出して頷く。
「鏡よ鏡――」
立木は小声のまま、すさまじい早口で、お馴染みの言葉を唱え始めた。何という連続詠唱スキル。
俺は、手に乗せられたものを次々と工場内へと投げ込んでいく。
『それは「鉄のハンス」です』
「何だ!?」
男に、動揺が走る。俺は構わずに手を動かし続ける。
『それは「鉄のハンス」です』
『それは「鉄のハンス」です』
『それは「鉄のハンス」です』
『それは「鉄のハンス」です』
『それは「鉄のハンス」です』
『それは「鉄のハンス」です』
手鏡やコンパクト、ポケットミラーに卓上ミラー。
立木の能力で魔法の鏡となったものが、ゆらゆらと波打つ光を放ちながら、男の上に降り注ぐ。こぼれた光は、やがて森へ降る雪に変わる。
「なんなんだよ、これ!?」
青白い光を発しながら男の姿を映し出し、能力名を告発するように喋りまくる、いかにも意味ありげな鏡。
それがハッタリだと気づくのは時間の問題かもしれないが、男の気が逸れ、黒い影の動きが鈍ったそのチャンスを、和葉さんは逃したりはしない。
「ちくしょう! くそっ――いてっ」
茨に絡みつかれてもがく男を引き寄せながら、和葉さん自身もそちらへと跳ぶ。
引き倒された男の周囲に、和葉さんの手から現れた幾つものつむが降り注ぎ、突き刺さった。
すると男の体だけではなく、黒い影もまた、地面に縫いとめられたかのように動かなくなる。
ささやくような甘い声が、眠りの時を告げた。
「おやすみ。――『鉄のハンス』」
白い糸は膨れ上がり、男の体を繭のように包み込み――そして、工場内に静けさが戻る。
寝てる時って、どんなヤツでも無防備な顔なんだろうな。
大の字に転がり、寝息を立てている男の方を見て、俺はそんなことを考える。
「二人ともありがとう。助かった」
地面に散らばった鏡を拾い上げながら、和葉さんは笑顔を見せた。
といっても工場内はほぼ真っ暗だったから、懐中電灯から漏れた光で、薄っすら見えただけだけど。
「あ、いやいや。立木の案と能力ですし」
「ま、新入りさんとしては頑張ったんじゃない?」
彼女は相変わらずの言い草だが、勝利の後とあって上機嫌だ。
「とりあえず、帰りましょうか」
鏡を拾い終えると、すぐに和葉さんが言う。
男がが起きてしまう前に帰らないと、またややこしくなってしまうので、俺たちは大きな音を立てないよう注意しながら、その場を離れた。
「……この後、どうなるんすかね? あのギャルも、あったこと忘れてたし」
俺がふと口にした疑問を耳にし、和葉さんは振り返る。
今は街路灯のおかげで、お互いの距離感もしっかりとつかむことが出来た。
「能力が眠りにつくことで、『物語』に関することは忘れてしまう。でも自分がしたことは、自分の手でしたこととして思い出すの」
「今までのことについては、お咎めはなし?」
「それがね、そんなに甘いもんでもないんだよ」
立木がそこで、口を挟む。
「『物語』の力が人を傷つけた。でも『物語』は眠り、『凶器』はなくなっちゃった。そうすると、どうなるか――ストーリーが書き換えられるみたいに、辻褄が合わせられちゃうの。例えば、『男は花泉公園の橋に、自作の爆弾を仕掛けて壊しました』……とかね」
和葉さんの言葉を借りるなら、問題が『人の領域』に移って来るってとこなのかな。
男が『紡ぎ手』として目覚めた時から、その力で好き勝手しようと思ってたのかどうかはわからないけど、超常の力を手にした時、つい使ってみたくなるのが人ってものなのかもしれない。
そう思うと、俺が手にする能力はどんなものなのか、ちょっと恐い気もする。
ただ、今回は偶々手伝うことがあったけど、やっぱり俺にも何かなきゃ、これから先、役には立てないだろう。
和葉さんが優しい戦い方を貫くことを選ぶなら、それを補える存在がいればいい。
前を行く二人の『紡ぎ手』の背中について行きながら、俺はそんなことを思った。
◇
「マジ? マジで付き合ってんの? あの二人?」
「いつから? 昨日コクったの? どっちが?」
「佐倉と立木!? 超ウケるんだけど!」
「いつまで続くか賭けねー?」
「ねーねーねー立木さん、佐倉くんのどこが良かったの? ぼーっとしてるとこ? ……あ、わかった。頼りないとこでしょ?」
翌日、学校へ行ってみると、俺と立木が付き合っているという話で、クラスは盛り上がっていた。
「やっぱそうだったのか、水臭いなぁ。……立木さんも本が好きみたいだし、二人はお似合いだと思うよ、俺は」
タケ、お前はやっぱ、いいヤツだな。
でも、そんなキラキラした目で見られても――違うんだ。全然。