がちょう番の娘

『今日、顔出せなくなった。ごめん。プリンはドアの前に置いといたから』
 我ながら言い訳くさい文面だと思う。
 プリンを7階まで置きにいけるなら、声くらいかけたって大して変わらない。連絡して、取りにきてもらうことだって出来るだろう。
『了解』
 でも、しばらくして届いたのは、そんな返信だった。
 もしかしたら二人とも、ちょうどどこかに出ていたのかもしれない。
 それを確かめる勇気は、俺にはなかった。

 ◇

 次の日学校に行っても、俺は立木になんて声をかけていいのかもわからなくて、それまでがそうだったように、近くの席のやつらと話していた。
 だけど気にはなってしまい、こっそり確認すると、向こうも今までがそうだったように、一人で本を読んでいる。
 それに少しだけほっとすると同時に、罪悪感とでもいうようなものが胸の中に広がるのを感じた。
 和葉さんを追いかけ『ラプンツェル』との戦いに巻き込まれ、『鉄のハンス』との対決を手伝い、『アメフラシ』の追跡には直接関わりもした。それで十分、やっていることの危険さを知ったつもりでいた。
 でも、俺たちが追ってるのは物語の登場人物ではなく、現実に存在する犯罪者で、『物語』がナイフや銃の代わりなんだってことを、渡部に言われたことでようやく具体的にイメージできるようになったんだと思う。
 毎回勝たせてはくれないかもしれない。返り討ちにあうこともあるかもしれない。先手を打たれたり、報復されることだってあるかもしれない。
 それを理解した時、実感がやってきた。じわじわ、じわじわと恐くなってきてしまった。
 本当に今さらだと思うし、自分が情けなくはあるけど。
「もう期末かぁ」
「あたし全然勉強してない」
 そんな会話が、ふと耳に入ってくる。
 来週から高校に入って初の期末ということで、教室でもそういった話題がよく出るようになった。
 俺も中間はあんまり良くなかったし、少しは頑張んないと。やっぱ、学生だしな。
 でも二人とも、ああやって戦いながら、勉強もちゃんとしてるんだろうか。
 渡部は――うろうろしてるだけだから別かもしんないけど。
 結局また、そんなことばかりを考える。
「な、サクもいいだろ?」
「……ああ、うん」
「じゃあ、決まりな!」
 突然タケが話を振って来たので、反射的に答えたら何かが決まってしまったようだ。
 何の話だったのか確認しようとすると、授業の開始を告げるチャイムが鳴り、教室の中が慌しくなった。
 席へと中々戻ろうとしない一部の連中も、入って来た数学担当のミカヅキさんに睨まれて着席する。
 俺も開きかけた口を閉じ、大人しく教壇の方を向いた。

「なあ、何が決まったって?」
 次の休み時間になり、隣へ向かって尋ねる。
 ミカヅキさんは物静かではあるが、妙な威圧感があるので、授業中に私語やメールはしづらい。
 ちなみにミカヅキさんとは名字ではなく、顔の雰囲気からつけられた呼び名だ。
 タケは呆れたような顔で、俺を見た。
「聞いてなかったのかよ?」
「ごめん、ちょっと考え事しててさ」
「また?」
 そう言ってタケは俺の腕に目を向ける。今日は長袖じゃねーよ。
「みんなでカラオケ行こうって話になったんだよ。勉強も疲れるし、たまには息抜きもいいだろ?」
「ああ、そういうことか」
 つーか、みんな勉強してるんだろうか。
 してないように見えても、陰ではきっちりとしてたりするからな。
 そう思うと、胸の中に少し焦りが生まれる。
「……行くよ」
 だけど結局、俺はそう答えた。
 どちみち勉強にも身が入んないなら、遊んでたって同じだろう。
 今はとにかく、何かで気を紛らわしたかった。
「立木さんも誘えば?」
 タケは周囲をはばかるようにして、小さな声で言う。
「いや……いいよ」
 気を遣ってもらうのはありがたかったが、流石にそれは勘弁願いたい。
「そっか」
 タケは何か言いたそうにしていたが、俺が席を立つと引き止めはしなかった。
 特に用事があったわけじゃないけど、教室の外に出て、ぶらぶらとする。
 手持ち無沙汰な様子のやつ、友達と雑談してるやつ、勉強熱心なやつ。
 みんな、小説とか漫画に出て来るような能力を持つ人間が実際にいるなんて、想像すらしてないんだろうな。
 それとも実は知っていて、知らないふりをしてるんだろうか。
 そんなことを、ぼんやりと考えたりした。

 ◇

「ちょっとトイレ」
 前田が潤んだ目で熱唱しているところを悪かったが、俺は身振りを加えて言い、席を立った。
 ドアを閉めると急にボリュームは小さくなり、同じような声があちこちの部屋から聞こえてくる。
 久々にカラオケに来て、歌は得意でもないけど大きな声を出したら、少しスッキリした気分になった。それだけでも来て良かったと思える。
 用を足し、部屋へと戻ろうとした時、ふと窓の外を見たら、下のほうで風に吹かれ、何かが飛んでるのが見えた。
 どうやら、紙みたいだ。
 それを追いかけているのは、制服を着た女子だった。この近くに中学があったはずだから、そこに通っている子だろう。授業で使うものとか、もしかしたらテストだろうか。
 そのまま車道に出るんじゃないかとひやりとしたけど、その前に紙が地面へと落ちたので、ほっとする。
 女の子はそれを拾い、周囲をきょろきょろ見回しながら急いでカバンに入れ、早足で歩いていく。
 あ、やっぱテストだな。さては点数が悪かったか。
 ありがちといえばありがちな光景なのに、何故か俺は妙な違和感を覚えていた。
 いや、気のせいだよな、きっと。
 部屋に戻ると、今度は俺がよく知らない女子が、ちょっと前に流行ったアイドルの曲をフリつきで歌っていた。確か前田と同じクラスだっただろうか。
 別に下手じゃないし、ダンスもちゃんとしてるのに、どこか可笑しくて、彼女が動くたびに笑いが起こる。
 俺もその輪にまた戻り、一緒に手を叩いて騒いだ。

 大声出して、馬鹿笑いして楽しかった時間も、過ぎてしまえば寂しさだけが残ったりする。
 帰る方向が一緒だったやつらとも別れ、同じ道を行くのは、俺とタケだけになっていた。
 空を見上げると、街灯の明かりの向こうで、星が申し訳なそうに瞬いている。
「……あのさ、立木さんとケンカでもしてんの?」
 ずっと気になってたんだろう。おずおずと言った感じで、タケは口を開く。
「いや、そういう訳じゃないんだけどな」
 俺の一方的な思いに過ぎないし、何も言われないから、向こうがどう思っているのかもわからない。
 和葉さんからも、連絡が来ることはなかった。
「ならいいけどさ。何かあったんなら言えよ。俺でよければ力になるからさ」
「ああ、サンキュ」
 タケはいいヤツだ。小学校からずっと一緒に過ごしてきて、やっぱそう思う。
 これまでも何かがあれば相談もしたりして、他の誰かなら鼻で笑うような内容でも、いつもそれなりにちゃんと聞いてくれるから、もしかしたら今抱えていることも話してしまえば、案外受け入れてもらえるってこともあるのかもしれない。
 だけど、『紡ぎ手』や『語り手』とか、警察には捕まらない犯罪者とか、そういうことを口にするのは、やっぱり勇気が要ることだった。
 下手したら、タケのことも巻き込んじゃうかもしれないし。
 また黙り込んでしまった俺を訝しげに見るタケに、俺は笑ってみせた。
「大丈夫だって、マジで」
「まさか、立木さんに脅されてる……とか?」
「まさか」
 唐突な言葉に、俺は思わず吹き出してしまう。
 だよな、と言ってタケも笑った。
「……なら、いいけどさ」
 急に声のトーンが落ちた気がして、俺は隣を見た。
 ちょうど明かりから離れ、暗がりに紛れたタケの表情は、読み取れない。
「じゃ、また月曜にな」
「ああ」
 次の交差点で、タケは片手を軽く挙げ、俺とは別の方向へと向かった。
 俺も手を上げ返して歩き出そうとしたけれど、何故かタケの背中が妙に遠く感じて、そのまましばらく見送る。
 そういえば、立木はずっと一人で本を読んでるし、渡部も誰ともつるむことはしていない。和葉さんも、そうなんだろうか。
 誰にだって秘密はあるものだろうし、話したくないことの一つや二つはあるだろう。
 でも、この世界の『常識』とは根本から違っている出来事と関わった場合、まず、どうやって説明したらいいのか、俺にはわからない。
 そういう嘘をつき続けて、誰かと付き合い続けなきゃいけないのって、結構きついものなのかもな。

「ただいま」
「おかえりー」
「うわっ」
 俺がガラガラと玄関の戸を上けると、そこには姉貴が立っていた。
「うわって何よ。今日はお母さんとお父さん、食事してくるから遅くなるって」
「そんなん聞いてないよ、俺」
 それを聞き、姉貴は腰に手を当て、無意味にふんぞり返る。
「だから今、伝えたじゃない。あんただってご飯いるとかいらないとか、連絡くらいしなよ」
「姉貴が作ってくれんの?」
「そんな訳ないじゃん」
 じゃあ何でこんなところで待ち構えてるんだ、と言いかけたが、すぐに思い当たる理由があり、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「じゃ、いらね」
 しっかり食った訳じゃないが、カラオケで色々摘まんではいたから空腹でもないし、腹が減ったら何か適当に食えばいい。
 それよりも、今はさっさと自室にこもりたかった。
 靴を脱ぐ俺に向かって、姉貴はにこにことしながら言う。
「でもさ、両親が仲いいのは、いいことだよね」
「……うん、そうだね」
「で、あんたは真奈ちゃんとどうなの?」
「ぶっ」
 思わず俺は口の中の空気を噴き出した。
 何という力技。しかも名前も調査済みだし。
「だから、立木とは何でもないんだよ! みんな誤解してるだけなんだって!」
「誤解って、どういう風に?」
 ヤブヘビ。そして階段へと急ごうとする俺の前を、しっかり塞ぐ姉貴。
「お姉さんはさ、可愛い弟のことが心配でたまらないんだよ」
 嘘つけ。面白がってるだけだろ。
 でもそんなことは口には出せない。話がさらに長く、ややこしくなるからだ。
「タケくんも心配してたし」
「……あいつが、わざわざ姉貴に?」
「ううん、偶々電話がつながっちゃったから、ついでに聞いてみたの」
 やっぱり。何が偶々だ。
 タケも散々問い詰められたに違いない。
「とにかく、何でもないんだって! ほっといてくれよ!」
「でも、何かはしてたんでしょ?」
 その体を押しのけ、ようやく階段へと一歩足をかけた俺の背中に、しつこく姉貴は食い下がってくる。
「お母さんも言ってたよ。タカがまた何か、好きな事を見つけたんだろうって。最近帰りが遅いみたいだからさ」
 俺は思わず立ち止まり、姉貴を見た。
「あんたってさ、昔からそうだったじゃん。好きな事見つけると、それに時間を忘れて没頭するの。それ、もうやめちゃったの?」
「やめたって、わけじゃないけど……」
 今そうやって小憎らしい顔をしてる姉貴だって、もしかしたら狙われるかもしれない。
「けど?」
 そのまま言葉を返され、俺は口ごもる。
 俺が和葉さんたちに手を貸さなければ、俺自身の危険もなく、家族や友人も標的になったりはしない。果たして本当にそうなんだろうか。
 こないだ前田は、『アメフラシ』の被害者になった。でも、わざわざヤツを狙ったとも思えないし、それこそ偶然巻き込まれただけだろう。
 そしてあの時『アメフラシ』を俺たちが封じなければ、被害は確実に拡大し続けた。
 見えざる犯罪者は野放しになり、俺の身近な人じゃなかったとしても、誰かが犠牲になる。自分の力で抵抗すら出来ず、真実も明らかになることはなく、また別の誰かが罪を被ることになるかもしれない。
 俺は、それをどうにか出来る立場にあるんだ。
 もし、そのことを今も知らなかったら。
 どこかで起こった事件を見て、他人事で済ますことも出来たかもしれない。そのまま『普通に』生きていくことも出来たかもしれない。
 だけど、俺は知ってしまった。もう知る前に戻ることも出来ない。
「……いや、まだ、やめてないよ」
 俺がそう言って、決意に満ちた目で見返すと、姉貴は頷いた。
「そ」
 そして突然興味を失ったかのように、リビングへと戻っていく。
 相変わらず予測のしづらいその行動に、俺はしばらくぽかんとしていた。

 ◇

 眩しい光がまぶたの裏に映り、俺は目を開く。
 時計を見たら、もう昼を過ぎていた。
 いつもの習慣で、もっと早くに目が覚めた記憶があるんだが、今日は土曜だなと思っていたら、そのまま二度寝してしまったみたいだ。
 俺はノロノロとベッドから起き上がり、隙間から光がこぼれているカーテンを開ける。まだ梅雨の最中のはずなのに、今日もやけにいい天気だった。
 携帯を確認すると、SNSやメールの通知が何件かあったけど、その中に和葉さんや立木のものはなかった。
 顔を洗い、遅い朝食を食べる。
 家族はみんな出かけてるみたいだった。いや、姉貴はまだ寝てるのか? どっちでもいいか。
 俺も服を着替えて、とりあえず外に出てみることにした。

 自転車に乗って、特に目的地も決めないまま漕いで。
 何気なく進んでいるのが和葉さんのマンションの方向だと気づき、俺はブレーキを握った。摩擦音と共に、体に振動が走る。
 昨日姉貴にはあんなこと言ったけど、何だか気まずくて、まだこっちから連絡も出来ずにいる。
 くそっ、俺のヘタレ。
「ぶはっ」
 その思いにタイミングを合わせたかのように、突然風が吹き、近くにあったのぼりが俺の顔に直撃した。
 丸っこく、でっかい字で『たこ焼き』と書いてある。ドヤ顔のタコのキャラが憎たらしい。
「くそっ」
 断続的に吹き続ける風のため、のぼりにまとわりつかれながらも前輪を動かしつつ振り払い、側から離れる。
 その時、カラオケ店の窓から見た光景が、脳裏によみがえった。
 ――あの変な感じ、気のせいなんかじゃなかったんだ。
 紙があれだけ遠くに飛ばされるほどの強い風だったのに、周囲にあった他のものは、全く動いてなかった。
 それはつまり、自然に起きた風じゃないってことだ。
 そのことに気づいたら、いてもたってもいられなくなった。俺はペダルに乗せた足を動かし、前へと進める。
 景色が流れるスピードはどんどん速まり、程なくして、カラオケ店の派手な看板が見えてきた。
 そこへは向かわずに、少し手前で道を曲がる。
 坂道を、力を込めて漕いだ。周囲の光景は、さっきよりずっとゆるやかに動いたが、やがて緑色のフェンスに囲まれたグラウンドと、その奥にある校舎が見えてくる。
 とりあえず中学校まで来てはみたものの、特に当てがあるわけでもない。
 校門からは遠い、グラウンドが見渡せる場所で、自転車に跨ったまま中を覗く。
 グラウンドで体を動かしている生徒の向こうには、制服姿の生徒も結構いるのが見えた。
 昨日の子は、いるだろうか。やっぱこっから見たってわかんないよな。
 そう思って顔を戻すと、いつの間にか目の前には、女子中学生数人が立っていた。
 彼女たちの先頭に立っていた真面目そうな子が、俺をじろじろと見ながら言う。
「うちの学校に、何か用ですか?」
「い、いや……」
 とっさに返す言葉が思い浮かばない。
 ボディランゲージで何とかしようとしたわけじゃないんだが、焦ったら無意味に手が動いた。その指先が、ハーフパンツのポケットに触れる。
 俺はそこに入っていたものを思い出し、藁にもすがる思いでそれを取り出した。
「こ、これ……昨日さ、ここの中学の子が、風に飛ばされて困ってたみたいだから、届けてあげなきゃと思って」
「たこ焼きのチラシ? こんなの飛ばされても困らないでしょ?」
「あれ? ま、間違えたかな……? ちょっと離れてたから、よく見えなくてさ」
 顔中に汗をかいてる俺を見て、彼女は怪訝そうな顔をした。
 流石に、こんなんじゃ誤魔化せないか。どうしよう。
 しかし、救いの手は意外なところから差し伸べられることになる。
「風で飛ばされたってさ、タダコの呪いじゃね?」
「ああ、そうかもね」
「こわーい!」
 後ろにいた三人の女の子が、口々に言ったのだ。
「タダコ?」
「多田だからタダコ。あいつがキレると風が――」
「いい加減にしなよ、そういうの」
 しかし、最初に声をかけてきた子が眉を吊り上げ、はしゃぐ彼女たちを睨む。
「根拠も証拠もないのに、そういうこと言うのって、私嫌い」
 そして、気まずそうに顔を見合わせていた三人を置いて、さっさと歩き出してしまった。
「あっ、みきちゃん!」
「もーっ、そんなにムキになることないのに」
「みきちゃんもこわーい」
 他の子もその後を追いかけて行き、俺だけが一人残される。
 しばらく遠ざかっていく背中を見送っていたが、やがて大きな息が漏れた。あれ以上話が長引けば、もっとボロが出ていたかもしれないと思うと、心底ほっとする。
 それに、探すべきが誰なのかを知ることが出来たのは、大きな収穫だ。
 俺は早速、帰りがけの生徒に聞き込みをしてみることにした。
 自転車に乗りながらというのも怪しさが増すだけなので、近くの場所にとめてくる。
「誰、あんた? ……ああ、タダコね。知ってる! 超やべーの」
「ついに取材まで来るようになったか。世も末だな」
「タダコ? 今日来てたと思うけど。もう帰ったかな?」
 警戒心を露にされることもあったが、それでもどこの誰だかわかりもしない俺に喋ってくれたのは、タダコと呼ばれる彼女が、図らずも有名人だったからだろう。
 そろそろ限界かなと思いつつも、部活中にサボっているらしい男子を見つけ、話を聞いた後のことだった。
 顔を上げた俺と、遠くからこっちを見ていた女子中学生の目が一瞬だけ合う。
 彼女は、いきなりこちらに背中を向けて走り出した。
「あ、ちょっと!」
 俺は慌ててその後を追いかける。
 女の子は角を曲がり、細い道や段差のある場所を通りながら逃げ、俺をまこうとした。
「待って! 少し、話を聞きたいだけだから!」
「何の、話なんですか!?」
 坂をのぼりながらの会話。
 待ってはくれないが、とりあえず返事はしてくれた。
「昨日、紙が、飛んで……」
 何と説明していいのかわからず、走るのもいい加減疲れてきたので、切れ切れになる言葉。
 それを聞き、前を力強く走っていた足が、ようやく止まった。
 俺も足を止める。
 しばらくはお互い、荒い呼吸だけをしていた。
「……有名、なんですね。タダコの呪い。そんなの信じてるんだ。風が強ければ、テストの一枚くらい簡単に飛ぶでしょ?」
 彼女――多田さんはそう言って笑う。
 おとなしそうではあるが、その中に秘めた強い芯のようなものも感じた。
 あまり整えられていないしっかりとした眉が、余計にそう思わせるのかもしれない。
「言ってない」
「何を?」
「俺、テストが飛んだなんて、一言も言ってないよ」
 彼女の顔色が変わる。鋭い視線が、こちらへと向けられた。
 俺は頭の中で言うことを整理しながら、口へとのぼらせていく。
「それに、たかが紙一枚でも、あんなに高く、遠くまで飛ぶのには、かなり強い風が吹かないといけない。あの周囲には木も、店ののぼりもあったのに、全然動いてなかった。まるで風が、紙だけを狙ったみたいじゃないか?」
「バカじゃないの? それがどうして、わたしのせいになるの?」
「あの子――あのテストを追いかけてた子、もう少しで車道に出そうだった」
 小さい子じゃないし、そのまま飛び出すってこともないかもしれない。
 だけど、そこへと誘導したということならば、悪意は感じてしまう。
「だから何? わたしがやったっていう証拠を見せなさいよ!」
 彼女が感情を荒げると、それが周囲の空気を押したかのように、風が生まれた。
 それは彼女の髪の先を揺らし、俺の頬にも触れる。
「でも、途中でやめたんだろ?」
 俺は、あくまで自分の主張を続ける。和葉さんと『鉄のハンス』のやり取りを思い出した。
 証拠なんて見せられないけど、本当なのかどうかは、本人が一番良く知っているはずだ。
 飛んでいたテストは車道に出る前に、力を失ったみたいにひらひらと落ちていた。それは、思いとどまったってことなんじゃないだろうか。
「今ならまだ間に合う。せっかくの能力だし、もっといいことに使えば――」
「こんな能力、どうやっていいことに使うのよ!!」
 彼女の声が悲痛なものとなって飛び出す。目には涙もにじんでいる。
 そう認識した時には、俺の体は突風に突き飛ばされていた。
 踏ん張ろうとする間もなくバランスを失い、後ろへと倒れる。
「ってぇっ!」
 そしてこの前打った場所と同じところも打った。
「あ――ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
 無意識だったんだろう。多田さんは青い顔で俺に駆け寄り、手を差し伸べてくる。
 この子、やっぱ悪い子じゃないんだ。俺はそう思いながら、その手を取った。
「あれ? 気持ち悪くならない……?」
「おわっ」
「ご、ごめんなさい!」 
 突然手を離され、また後ろへと転がった俺に、さっきと同じ言葉が降ってきた。

「ここ好きなんだ。風が気持ちいいでしょ?」
 坂をのぼった先にあった、ちょっとした緑地。
 人もいなくて、見晴らしもよく、多田さんの言うように、風が気持ちよく吹いていた。
 眼下にはジオラマみたいな家が肩を寄せ合って並んでいる。さっきの中学校も見え、グラウンドで小さな人影が走り回っているのが確認できる。
「何だか、不思議な気分。お仲間に会えるなんて」
 ようやく落ち着いて話をすることが出来るようになったので、俺は簡単に自分のことを説明していた。
 といっても、俺自身自分の能力をまだよく掴めていないから、似たような能力者なんだ、程度のことなんだけど。
「最初は、わたしに意地悪する子に、少し仕返ししたかっただけだった。でも、その子が転んで怪我して、泣いて……わたしもすごく気持ち悪くなっちゃって、だからもう、やめようって思って」
 彼女は景色を眺めながら言う。
 そういう現象が起きたということは、能力を目の前で使ったんだろう。
「だけど、いつの間にか噂が流れてて――何の証拠もないのに、風が吹いて何かが起こると、タダコの呪いだって言われるの。そんな力があるなんて誰も信じてもいないのに、とりあえずわたしのせいにするんだよ」
 思い出すとつらいのか、表情が曇った。
 顔をうつむかせて近くの草をむしってから、彼女は続ける。
「やめてよって、言ったことあるの。そうすると、ただのジョークじゃん、なにムキになってんの? って笑われるの。ずっとずっと我慢してたけど……それなら、それを本当のことにしたって同じだって思ったんだ」
「同じなんかじゃないよ」
「……うん、わかってる」
 俺の言葉に頷き、彼女は手を開いて、草の切れ端を投げた。
 それは少しだけ風に乗り、すぐに散って落ちる。
「もっと、普通に生きたかったな」
 彼女はまた視線を、町へと移す。
 学校を見ているのかもしれないと、俺は何となく思った。
「……能力、なくせるかもしれない」
 そして、呟くように言う。
 事情を話せばきっと、二人も協力してくれるはずだ。
「そんなこと、出来るの?」
「俺じゃないんだけどな。……頼んでみるよ」
「ところがもう来てるんだなぁ」
「わっ! 立木!」
 背後には、いつの間にか立木が立っていた。その後ろには和葉さんの姿も見える。
 二人とも多田さんの方を見ていて、俺とは微妙に目を合わせてくれない。
 気まずい。
「本当に能力、なくしちゃっていい? 練習すれば、感情に引きずられたりせずに、コントロールするのも上手くなるかもしれないよ?」
 そんな俺には構わずに、立木が聞いた。
 多田さんは突然現れた二人を驚いたように見ていたが、やがて事態が飲み込めたようだった。ゆっくりと、首を横に振る。
「ううん、もういらない。疲れちゃったし、誰かを傷つけるかもってと思うと、こわいから。みんなから悪口言われるだけで、何の役にも立たないもん」
「だけど、それは変わらないかもしれない。今まであなたが能力を使わなくても、言われていたんだから」
 和葉さんが静かに告げたのは、紛れもない現実ではあった。
 彼女を悪く言うヤツらは、それが事実がどうかなんて、どうでもいいみたいだから。
 でも、これだけは伝えておきたいと思って、俺は意を決して口を挟んだ。
「そうじゃない子も、いるみたいだよ。ミキちゃんって呼ばれてた子は、証拠もないのにそういうことを言うのは嫌いだって言ってた」
「飯塚さんが……」
 それを聞いて、多田さんは嬉しそうにはにかむ。
「うん、そういう人たちが居てくれるのも知ってる。でもね、わたしはどうしても言えなかった。そんなことしてないとは言えたけど、出来ないって言えなかったの。だって、ほんとは出来るんだもん」
 それから顔を上げ、和葉さんの目を真っ直ぐに見た。
「だけど、この力がなくなれば、わたしは胸を張って、何もしてない、出来ないって言える。それは今度こそ、ほんとのほんとだから」
「そうね。……わかった」
 その視線を受け、和葉さんは微笑みで応える。
 彼女の手には、いつの間にか大きなつむが幾本も現れていた。それを、静かに多田さんの周囲に刺していく。今回は、茨の出番はない。
 多田さんは不安そうに和葉さんや立木を見て、それから俺に視線を向けた。
 俺が頷きを返すと、彼女は安心したように表情を柔らかくし、静かに目を閉じる。
「おやすみ。――『がちょう番の娘』」
 そして、ささやくような甘い声が告げ、膨れ上がった真っ白な糸が回りながら、多田さんを包み込んだ。

「あの、――でっ!」
 俺が何か言わなきゃと口を開いた時、重い痛みが頭へと走る。
「あのね、首突っ込むなら連絡ぐらいしなさいよ! やりたくないのかと思ったから、和葉さんとそっとしておこうって決めたのに!」
「すみません……」
 それと、鏡で殴るのはやめてください。
 涙目になりながら立木を見ると、そっぽを向かれた。それで和葉さんを見たら、いつになく厳しい表情が返ってくる。
「覚悟がないなら、もう私たちには関わらないで。今回は話のわかる相手だったから良かったけれど」
「そうそう。もしあの風があんたを本気で攻撃してたなら、間に合わなかったかもね」
 立木も和葉さんの後ろに隠れ、援護するように言った。
 俺は、草の上に寝転がっている多田さんに目を向ける。
 その表情はとても穏やかで、心地よい日向ぼっこの最中に、そのまま眠ってしまったみたいだった。
 彼女は『紡ぎ手』として目覚めたことに、苦しんでいた。誰を頼ればいいのかもわからず、ずっと一人で悩んでいた。
 和葉さんたちのしていることは、そういう人たちを救う、一つの方法でもあるんだ。
「……ごめん。でも、俺、やっぱり続けたい」
 俺が自分に能力があると聞いて、無邪気に喜んでいた時の二人の反応を思い出す。
 『紡ぎ手』に対する認識というのも、やっぱり甘かったと言わずにはいられない。
 見上げた二人の姿は、何だかとても大きく、大人に見えた。
「自分に出来ること、やりたいんだ」
 まだ、半人前だけどさ。
 俺はきっと、捨てられた子犬みたいな目をしてたんじゃないだろうか。
 二人ともしばらく俺を見た後、堪えきれなくなったかのように吹き出し、笑みをこぼす。
 俺もつられて笑うと、風も笑ったみたいに優しく吹いた。

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