ヘンゼルとグレーテル

「……ま、良かったよね。女子中学生を追い回す変質者って通報されなくて」
 月曜の放課後。
 帰り道で、立木が唐突にそんなことを言い出した。
「あ、ああ……ははは」
 最初は理解できなかった意味がじわじわと伝わってくるにつれ、乾いた笑いが口から出てくる。
 怪しまれるかな、程度には考えてたけど、無我夢中でそこまでの危機感は持ってなかった。
 今更ながら背筋が寒くなるような気持ちだったが、多田さんのはにかむような笑顔や幸せそうな寝顔を思い出すと、それもまた溶けるように消えて行く。
 そうこうしているうちに、いつものように和葉さんのマンションの7階へとたどり着いていた。
「あれ? 留守?」
 しかし、インターフォンを鳴らしても返答がない。
「グループにも投稿はない、か……メールとかは?」
「ううん、この前もいつも通りに別れて、今日も予定通りだったから、特には」
 言って立木は鞄から取り出した携帯を指先でいじり、耳へと当てる。
「ダメ、留守電」
 そう判断するまでの時間は短かった。コール音が鳴ったとは思えない。
「電源切れてる?」
「多分。切ってるのかな? あとは圏外とか、故障とか……」
 立木は携帯の画面を眺めながら首を捻っている。
 俺は少し迷ってからドアノブに手をかけ、回してみるが、鍵はしっかりかかっていた。
「開かないや。もしかしたら、まだ寝てるとか……」
 自分で言っておいてなんだが、約束の時間に寝ている和葉さんというのも想像しづらいものがある。
 何かおかしい。――いやいや、きっと何でもない。
 頭の中で、不安に駆られる自分と、日常の出来事として淡々と処理しようとする自分がせめぎ合った。
 そこに、以前渡部に言われたことがずかずかとやって来て、結局不安のほうがどんどん大きくなってきてしまう。
 立木も同じことを感じたのだろう。鞄から小さな鏡を取り出すと、一つ大きく呼吸をし、呼びかけた。
「鏡よ鏡、『いばら姫』はどこ?」
 しかし、魔法の鏡はいつもの光を発することもなく、黙り続けている。
 立木も鏡を見つめたまま、何も言わない。
「どうしよう、家族に連絡したほうがいいかな? あとは――」
 俺は静けさに耐えられず、とにかく何かを言わなきゃと口を開いた。
「普通の事件だったら、意味があるだろうけど」
 上手く続かない言葉に重なる、静かな声。
「まだ、事件って決まったわけじゃ……」
 言いながらも、俺の声は小さくなっていく。
 まともじゃない状況だってことは、もう認めないわけにはいかなかった。
「魔法の鏡に引っかからない状況ってどんなだろう……」
 その間にも、立木は必死で考え込んでいる。
「かなり、遠くにいるとか? 前に言ってたじゃんか、範囲が広いと難しいって」
「可能性としてはあるけど、いつも一緒に行動してるし、和葉さんだけに対象を絞れば、相当遠くに行っても追跡できる自信があるよ」
「じゃ、じゃあ――戦いが嫌になって、ちょっと休養を」
「あんたみたいに?」
 ぴしゃりと言われ、俺は言葉に詰まる。
 それも和葉さんに限って、考えにくい。
「あっ」
「今度は何?」
 いい加減俺の発言に嫌気が差したのか、眉をしかめる立木。
 それに若干びびりながらも、俺は思い切って言ってみた。
「渡部に相談してみないか?」

 ◇

「渡部!」「めっけちゃん!」
 関高からは大分離れたカフェのオープンテラス。
 俺たちが揃って上げた声に顔を向け、渡部はアイスコーヒーを噴き出した。
「大変! 大変なの!」
「ごめんな、また急に」
 木々に囲まれ、ゆったりと時間の流れる空間へと突如現れた騒音に、他のお客さんたちは、何事かとこっちを見ている。
「な、何なんだ……お前らは」
 咳き込みながら抗議する渡部の腕を両側から掴んで席を立たせ、俺たちはレジの方向へと連れて行く。
「とりあえず、あたしが払っとくから」
 そう言って財布を出した立木に頷き、俺は渡部を引きずるようにして、店の外へと連行した。
 少し遅れて立木もやってくる。
「迷惑料として、今回はあたしのおごりってことで」
「まだほとんど飲んでないんだぞ!?」
「じゃあ、後で俺が何かおごるからさ」
 先日のプリンといい、出費が痛いんだが、そんなことを言ってられる状況でもない。
「お前らは奢れば何でも許されると思ってんのか!?」
「和葉さんが行方不明なの」
 もっともな主張はスルーし、強引に話を進める立木。渡部には悪いが、こちらも切羽詰まっている。
 ヤツはもう何を言っても無駄と悟ったか、大きく大きくため息をついた。
「……どっか出かけたんだろう」
 面倒そうに言うヤツ自身、そんなことを信じてるはずもないだろう。
「鏡で探しても見つかんないんだってば!」
「そんなことで何故、俺のところに来るんだ」
「だってお前、雑学王だし、何か知ってるかと思って」
「雑学王じゃねぇよ! 変な呼び方すんな!」
「めっけちゃん、コントやってる場合じゃないの。手伝って、お願い!」
 いつになく殊勝な態度の立木に続き、俺も拝むようにして頭を下げる。
 渡部はもう一度ため息をついてから言った。
「……命を落としたというのでなければ、考えられることが一つある」
 急いで顔を上げた俺たちを、呆れたような視線が迎える。
「この世界ではない場所に居るということだ」
「それって、どういう意味だよ?」
「魔法の鏡は、姿を消している者であっても見つけ出す。ならば、この世界ではない別の場所――異空間とでもいう場所に居ると考えるのが自然だろう」
 それが自然なのかどうなのか、俺には良くわからない。
 だけど立木の鏡は『アメフラシ』が消えていようが、渡部がカフェに居ようが見つけ出すんだから、よっぽど変な場所に居るということは間違いないんだろう。
 前置きされたことについては、考えないようにする。
 ――突然思い立ってアフリカ辺りに旅行に行ってました、とかいうオチだったら気が楽なんだけどなぁ。
「その異空間っていうのも、『紡ぎ手』が作ったってことか?」
「そういうことになるだろうな」
「心当たりがあるとか?」
 その問いには、渡部は首を横に振った。
「いや。そういったものを作れそうな能力者をピックアップするしかないかもな」
 俺は今度は立木に向き直り、尋ねてみる。
「誰かいないの? 目をつけてた『紡ぎ手』とか」
「ううん。別に鏡で能力の詳細がわかるわけでもないし、異空間を作れるっていう能力者には、まだお目にかかったことはないから」
 だが、こちらの反応も思わしくない。
 渡部の言う通りなのであれば、そもそも魔法の鏡には引っかかりにくい能力なんだろうしな。
「……やるしかないよね」
 不安げに呟き、深呼吸をしている立木を見守る俺を、突然渡部が指差した。
「お前も手伝えよ」
「お、俺?」
 いきなりのことに驚き、俺もつい自分自身を指差す。
 それを不思議そうに眺めていた立木の表情も、ぱっと明るくなった。
「そうだよ! あんたなら検索範囲を広げられるかもしれない」
「でも、どうやったらいいのか……」
「イメージ。イメージが大事」
「イメージ……」
「鏡よ鏡、今、能力を使ってる『紡ぎ手』は?」
 戸惑っている俺を置いてきぼりにし、立木はいつものフレーズを口にした。
 無自覚とはいえ、今までも和葉さんのサポートは出来てたわけだし、ここでぐずぐずしてても仕方がない。とにかく俺もやってみることにする。
 イメージ――イメージだな。
 俺は魔法の鏡の青白い光が、ライトみたいにあちこちを照らし、暗がりにうずくまっている和葉さんを探し出す様を頭の中に描いた。
 ――和葉さん、大丈夫かな。もし、何か酷いことになってたら、どうし――。
「でぇっ!」
 覗き込んでいた鏡が顔面にぶち当たり、俺は痛みに鼻を押さえる。
「何すんだよ!」
「真面目にやって!? 集中して!? 正直増幅どころか、雑音でしかないから!」
 鬼気迫る立木の形相に、俺は無言のまま何度も頷く。
 それからもう一度、俺はイメージを作り直した。
 前に立木はマップを見てイメージを作ってたから、地図の縮尺が変わっていく映像を思い浮かべてみる。
 この地点から、もっと広い範囲、広い範囲――色んな思考や感情がそれを邪魔しに来るのをひたすら払いのけ、鏡だけを見続けた。
「OK、そのままお願い」
 今度はどうやら上手くいってるっぽいんだが、まだなのか。
 きつい。こんなに集中し続けるのって、今までやったことないから、ひたすらきつい。
 だけど、和葉さんのことを思うと、そうも言ってられない。
 『和葉さん』というキーワードが、また嫌な思いを呼び起こしそうになったが、何とかそれを押しのけながら、とにかく自分のイメージに集中し続ける。
『それは――』
 やがて、魔法の鏡が、能力名を挙げ始めた。
『「おおがらす」、「歌う骨」、「怪鳥グライフ」……』
 すらすらと調子よく発せられていた声はすぐにトーンダウンし、搾り出すようなものへと変わっていく。
『……「ヘンゼルとグレーテル」。……「賢いエルシー」……「蜂の女王」……』
「も、もうだめ……!」
 とうとう立木の集中力は切れ、鏡の声も途切れた。
 いや、俺の集中力の方が先だったのかもしれない。頭がくらくらして、額に汗がにじむ。
 大きく息をつき、頭を振る俺たちを尻目に、渡部は腕を組んで考え込んでいる。
 やがてヤツは小さく頷くと、言った。
「行くぞ」
「ど、どこへ?」
「『ヘンゼルとグレーテル』の所だ」

 ◇

「あんたたちが、ヘンゼルとグレーテルね!」
 電車に乗り新宿まで移動した俺たちは、魔法の鏡の情報を頼りに、雑居ビルに挟まれた空き地のようなスペースへとたどり着いた。
 直球勝負に出た立木の言葉に、お前誰かに捕まってんの? っていうようなデザインの服を来た大柄な男は、体を斜めにしながらゆっくりと振り返る。
 そして俺たちそれぞれを見ると、口の片端を上げた。
「そうだが、何か用か?」
「何か用かじゃねーよ、なんだよそのキモい髪型は! 笑い方もキモいし! だからお前はモテないんだよ!」
 ただ振り向いただけなのに、今までの鬱憤を晴らすかのように罵られ、怯む男。
「お、オレは――」
「失礼ね! お兄ちゃんはね、モテないんじゃないの、孤高の存在なの!」
 何か言おうとした男を押しのけ、どっかで聞いたようなセリフでフォローを始めたのは、暗がりとなった背後から現れた、ゴスロリ衣装の女だった。
「安物ゴスロリ女は黙ってろ!」
 今度はそっちに噛み付く立木。すると女の顔色が変わった。
「や――ゴスロリじゃないですー。パンクですー」
「どうせ大したこだわりもねーんだから一緒だろ!」
「な、あんただって、ただ地味なだけじゃん!」
 ちなみに今回は着替えてくる余裕が無かったので、ツインテールではない。
「見た目のことなんかどうでもいいんだよ! 和葉さんをどこへやったの!?」
 いやいや、お前が言い出したんだろ。
 声に出してツッコミたいところだったが、俺は大人しく状況を見守る。
「カズハサン? 誰だよそれ。知らねーな?」
「うんうん、そんな人知らない。いきなり失礼な人たちだこと」
 そうして二人が見合わせた顔が一瞬引きつったのを、俺は見逃さなかった。当たりだ。
 渡部へと視線を向けると、ヤツも頷く。
「おとなしく『いばら姫』を渡したらどうだ?」
 そして、一歩前へと出た。かもし出す謎の威圧感が、二人を一歩下がらせる。
「だから知らねーっつってんだろ!」
「お兄ちゃん」
 声を荒げた男に近づき、ゴスロリ――パンク女が、小さく言った。
 どうやらこの二人は、本物の兄妹らしい。
「このくらいなら、行けるよ」
 その言葉の意味を考えている間に、渡部が俺と立木の腕を掴み、引き寄せる。
「佐倉。俺たち三人を頑丈な壁が囲むイメージをしろ」
「えっ? どういう――」
「早く!」
 気迫に圧され、俺は言われるままイメージを始めた。
 それから少し遅れて、孤高の兄が大きく頷く。
「よし。――いくぞ」
「お菓子の家へごしょーたーい!」
 続いて妹が手を振り上げると、やたらとメルヘンな家が空中からひねり出されるように、突如出現した。
 それは兄妹と俺たちの間を塞ぐように、どすんと着地する。
 そしてパンで出来た丸っこい扉がゆっくりと開き、中から鉤爪のついた巨大な手が這い出て来た。
「うわっ」
「イメージを続けろ!」
 耳元で渡部の鋭い声がし、俺は祈るような気持ちで、頑丈な壁が幾重にも俺たちを守るイメージを続ける。
 すると、にゅっと伸びて目前まで迫っていた巨大な腕は、まるで俺たちを見失ったかのように彷徨い、すぐ脇を通り抜けて行った。
「くそっ、どこ行きやがった!?」
「ずるい!」
 兄妹も同じように、辺りを見回している。
 俺は初めて渡部に出会った時のことを思い出した。二人には、こっちの姿が見えていないんだ。
 腕はやがて家へと戻って行き、それと同時に、兄妹の視線もこちらへと向いた。
 兄貴が舌打ちをする。
「今度は外さねぇぜ!」
「待ってお兄ちゃん! 隠して!」
 気合を入れて舌なめずりをした兄貴に、妹が慌てて声をかける。
「お、おう」
 その葛藤を表すようにがたんがたんと左右に揺らぎながら、お菓子の家は消えていった。
 だが、何かが空中に残ったままになっている。
「あれって……」
 何もないように見える場所から、そこだけぴょこんと垂れ下がってるのは――茨の先?
「やっぱり、あんたたちの仕業じゃない!」
 立木に指を突きつけられ、兄貴の顔が引きつる。
 しかしそれは、次第に歪な笑みの形へと変わって行った。
「言っとくが、俺たちはあいつを出したりしない」
「とろけるような美味しいお菓子に、もうすぐ記憶もぜーんぶとろけちゃうんだから。そしたらもう、あたしたちの邪魔は出来ないもんね!」
 妹も腰に手を当て、耳障りな笑い声を上げる。
「お前らの目的は何だ? 何でこんなことをする?」
 俺は兄妹を睨み付けて言った。
 世界征服――とかではなさそうだけど。
「目的? そんなのねーな。ただ、邪魔なヤツにはいなくなってもらいたいってだけさ。当然だろ?」
「そんなこと、あたしたちがさせない!」
「はっ、どう戦おうっていうんだ?」
 今度は立木の言葉にも、兄貴は余裕の表情を崩さない。
 そう、俺たちのチームでアタッカーと呼べるのは、和葉さんだけだ。
 しかし、渡部も不敵な笑みを浮かべ返し、静かに言った。
「策はあるさ」
 そして唐突に、『ヘンゼル』に向かって走り出す。
 いきなりのことに動けず、びびる兄貴。渡部はそのまま地を蹴る。
 それから――いきなりドロップキックをかました。
 兄貴の体は吹き飛び、背後にあったゴミの山に突っ込む。
 悲鳴を上げる妹。唖然とする立木と俺。
 ……あ、そうか、別に能力で戦う必要もないんだ。
「やるじゃん、渡部!」
「は、初めてやった……」
 こいつはこいつですげーのかバカなのか。
「きゃっ! やめて! いたっ! ごめんなさい!」
 その隙に立木は手鏡を手に、妹に襲い掛かっていた。
 それは鈍器で殴打って言わないか。
「てめーら! ふざけやがって!」
 起き上がった兄貴が、二人へと向かう。
「佐倉、何突っ立ってんだ!」
「あ――ああ」
 二人へ加勢しようとした俺を見て、立木が何度も空中にあごを向けた。
「バカ! あんたにしか出来ないことがあるでしょ!」
 その先には、未だ空中から垂れ下がっている茨の先端。さっきよりも少し長くなっているようにも見える。
 そうだ、和葉さんの力を増幅することが出来れば――。
 再び二人の方に目をやると、戻ってきた兄貴が渡部に掴みかかり、妹も立木へと反撃を始めている。
 こうなれば五分――いや、普通の喧嘩なら兄貴が一番強そうに見えた。
 とにかく俺は自分の仕事をやるしかない。
「動け動け動け……」
 俺は穴があくんじゃないかという勢いで、茨を睨みつける。
 動け、動け、動いてくれ!
 だけど、茨はちょっとしか動かない。多分、今まで和葉さんが自力で動かしてたのと大差ない。
 何か違う。――イメージを変えないと。
 俺は、巨大な手が茨の先を掴み、引っ張り出すところを想像してみた。太い指は隙間をこじ開け、さらに茨が抜けやすくする。
 引っ張る、引っ張る、引っ張る――!
 それに応えるように、茨の動きは徐々に、徐々に大きくなり、さっきと比べてかなりの部分が表へと出てきた。
 そして空中には亀裂が生まれ、剥がれた欠片は淡く光りながら降り注ぎ始める。
「お兄ちゃん、あたしたちのお菓子の家が!」
「は、早く! 早く直すんだ!」
「させるかよ!」
「おとなしくしてろ、バカ兄妹!」
 揉み合う四人の声が聞こえるが、俺は茨から視線を外さず、手で引っ張るイメージをし続けた。
 茨の周辺はホログラムシートみたいに歪み、そこへ深い森の風景が揺らぎながら映る。
 大きな破片が零れ落ちた。明るい部屋の中があらわになる。
「和葉さん!」
 そこから現れたのは、紛れもなく和葉さん、その人だった。
「二人とも離れて!」
 立木と渡部は無言で後ろに跳んで距離を取り、それから俺のいる場所まで走って戻ってくる。
 その場に残されたのは、『ヘンゼルとグレーテル』の兄妹のみ。
 その周囲に、沢山のつむが突き刺さった。
「たかやくん、手伝って!」
 俺は頷き、もう一度意識を振り絞る。イメージしたのは、幾つもの糸車だ。
 からからと回る糸車と連動するように、つむが白い糸を放ち始める。
 真っ白な竜巻となった糸は、まだ満足に動けない二人を囲い込み、その姿を覆い隠した。
「おやすみ。――『ヘンゼルとグレーテル』」
 そこへ、ささやくような甘い声が降りかかる。
 和葉さんが地面へ降り立つのと同時に、積み木が崩れるような軽い音が、ビルの谷間に響き渡った。
 お菓子の家が、崩壊したんだ。
「やった……!」
 掠れた声を上げた俺の目が見たのは、地面に降り立った後、揺らぐ和葉さんの体だった。
「和葉さん!」
 立木の悲痛な声に我に返り、俺も慌てて駆け寄る。
「和葉さん、しっかり!」
 抱えて起こした顔が蒼白い。目を閉じたまま、俺の呼びかけにも応えない。
「救急車だ。とにかく表通りまで出るぞ」
 渡部の声が、やけに遠くから聞こえるような気がした。
 
 ◇

「……くら、佐倉」
 体に揺れを感じて目を開けると、そこには立木の顔があった。
 その後ろには、白っぽい天井が見える。病院のロビーで待っているうちに眠ってしまったらしい。
「和葉さん、何ともないって。少し休んだら帰っていいって」
 ほっとしたその表情を見て、ぼんやりとした頭にも血が戻ってくる。
 言葉の意味が浸透してくるにつれ、安堵に胸が温かくなった。
「ごめん、俺……」
「慣れない能力を立て続けに使ったんだもん。仕方ないよ。あんたは良くやったって!」
 この緊急事態にと。自分を情けなく思っていると、意外にも立木が優しい声をかけてくれる。
 隣を見たら、缶コーヒーやジュースやらを何本も持っている渡部と目が合った。ヤツはむっつりとした顔で壁の方を見る。
「和葉さんは?」
「今、点滴を受けて眠ってる。……ずっとお菓子の家の中で頑張ってたからね」
 付け加えられた言葉は、独り言のように頼りなかった。
 しばらく沈黙が流れる。俺は何気なく入り口の方向を見た。
 たった今自動ドアを通って来た、デカいサングラスをかけ、アニマル柄のTシャツにミニスカートという姿の女の人が、カッカッとヒールで床を叩きながら、足早にこっちへと向かってくる。
 彼女はそのまま俺たちの前を通り過ぎた。空気には、香水のにおいがはっきりと混じる。
 スタイルもいいし、身に着けているものも明るい色の髪も似合っているが、病院という場所の中で妙に浮いている気がした。
 その背中は、処置室の中へと消えて行く。
 ――と思ったらすぐに出て来た。今度は俺たちのところを目指して歩いて来る。
「あなたたち、和葉の友達?」
「はぁ」
 何と答えていいものかと迷っていたら、気の抜けた声が出てしまった。
 まだ頭が上手く回ってないみたいだ。
「あの――」
「起きたらこれ、和葉に渡しといてくれる?」
 立木が何かを尋ねる前に、彼女はバッグから取り出した分厚い封筒を、俺に押し付けるように渡す。
 そしてにっこりと笑うと「じゃね」と言って、さっさと歩いて行ってしまった。
「……だ、誰?」
「さぁ……?」
 立木も知らないようで、首をひねっている。
 渡部の方も一応見てみたが、知ってるはずもないだろう。
 それからしばらくして、今度は高そうなスーツをびしっと着こなした男の人が、こちらへとやって来た。
 急いだためか、ハンカチで顔の汗を何度も拭っている。
「ああ、立木さん。……和葉は?」
「こんばんは。今、よく眠ってます」
「大丈夫、なんだろうか」
「はい。疲れが溜まっただけだろうって。最近、暑くもなってきましたし」
「……良かった」
 彼はほうっと長い息を吐き、またハンカチを顔に当てる。
 再び上げた視線が、俺と渡部の方へと向いたことに気づいた立木が、紹介を始めた。
「あっ、クラスメイトの佐倉くんと、その友達のめ――渡部くんです。和葉さんが倒れた時、二人が偶然通りがかったおかげで、すっごく助かりました。……こちらは、和葉さんのお父さん」
 さらっと吐かれる嘘に一瞬ひやりとしたが、とりあえず俺と渡部は頭を下げる。
 その嘘のおかげか、訝しげだったお父さんの表情が、少し柔らかくなった。
「それはありがとう。助けてもらった上、遅くまで付き添ってもらって申し訳ない」
 ロビーの時計は、もう21時過ぎを示している。
「いえ、やっぱり心配ですし」
 俺がそう答えると、お父さんは少し困ったような顔をし、それから微笑んだ。
「皆さん、今日は本当にありがとう。後は私がついているから」
「でも――」
 もう大丈夫だとはわかっていても、事情が事情だけに心配が募る。
「はい、どうぞお大事に。おやすみなさい」
 だが立木はぴょこんと頭を下げると、俺の腕をぐいぐいと引っ張った。仕方なく俺も頭を下げ、歩き出す。
 渡部も大量のドリンクの缶を抱えたままでついてきた。
 振り返ると、もうお父さんの姿は消えていた。もちろん和葉さんの姿もない。
 自動ドアをくぐって外に出ると、少しだけ風はひんやりしている。
 立木から和葉さんの様子は聞けたし、起こしたら可哀想だと思って遠慮してしまったけど、俺もこの目で少しでも様子を確かめて、安心したかったな。
 疲れはまだ全然抜けなくて、頭もぼんやりしたままだけど、今夜もまた、中々寝付けそうに無かった。

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