夏祭り

 そして、待ちに待った夏休みがやって来た。
 「休みだからってだらけてるんじゃない」と午前中に叩き起こされ、とりあえず顔を洗ってメシは食ったものの、昨夜遅くまで働いていた頭は、眩しい日差しにも反応が鈍い。
 俺は机の上に無造作に置かれた宿題をチラ見し、それをなかったことにするかのように視線を逸らした。その先へと新たに飛び込んできたのは――ばあちゃん家から持ってきた童話全集。
 そうだ、俺には学校の勉強なんかよりもずっと大切なことがあるじゃないか。
「よし」
 意気揚々と、まずは第一集を手に取り、ベッドへと寝転がる。
 開けば、『かえるの王さま』という題と、可愛い挿絵が目に飛び込んできた。タイトルは何となく知っている気がするけど、内容は全く覚えていない。
 大きめの活字を目でたどり、次のページへ。視線はゆっくりゆっくり、時に滑るように進み――また戻る。
 大して長い話じゃない。俺はそれなりに本も読んできてるし、この程度ならすぐに読み終わり、次の話へと進めるはずだった。
 でもページをめくる指先は中々動こうとはせず、視線は相変わらず文字の上を行ったり来たりしている。
 どういう話かということは何となく理解できるんだけど、挿絵以上のイメージも浮かばないし、物語の中にも入り込めない。正直、全く面白くなく、退屈なレポートでも読んでいるかのような気分だった。
「うーん……」
 俺は呻り、本を持ったまま仰向けになる。何でこんなに読みづらいんだろうか。
 下手をすると宿題のほうがずっと楽かもしれない。――いや、やらないけれども、そのくらい読書に没頭できなかった。前に何気なく手に取った絵本や児童文学だって、それなりに面白く読めたから、子供向けだからという訳ではない気がする。
 重い溜め息とともに、この前ばあちゃん家で起こったことが、ふと脳裏へとよみがえった。
 あの時浮かんだのは、何だったんだろう。声――のような、情景のような。
 ふと、視線がドアのほうへと向かう。
 姉貴は、ばあちゃん家に童話全集があるのを覚えてた。もしかしたら俺が覚えてないようなことでも知ってるんじゃないだろうか。
 俺は立ち上がり部屋を出て、姉貴の部屋の扉をノックしてみる。返答はなかった。
「ああ、出かけたみたいよ」
 一階で寛いでいたお袋に尋ねると、そんな答えが返ってくる。さっきは居る気配があったんだが、いつの間に。
 メールでもしてみようかと一瞬だけ思ったものの、そんなに急ぎの用でもないし、かえって色々突っ込んで聞かれたり、恩に着せられたりして大事になるのが目に見えていたので、今度何かのついでにでもしようと決め込むと、俺は冷凍庫からアイスを取り出して自室へと戻った。
 ひんやりとした舌触りを楽しみつつ、再び本と向き合う。
「……はぁ」
 が、やっぱりどうしても気分が乗らない。
 俺は溜め息と共に携帯を取り出し、音楽でも聞こうかとディスプレイに触れた。少しの間をおいて、壁際のスピーカーからギターの音が流れ始める。
 シャッフルで選ばれた曲は、アルガンノアの”Neon’s Springs”だった。
 そういえば、あれから歌詞について自分なりに調べたりはしてみたんだけど、いまいち良くわからないままだったのを思い出す。放置しておくのもモヤモヤするし、ちょっとグループで聞いてみようか。

<あのさ、誰かこの歌詞の意味、わかる?>

 フキダシのマークがデザインされたアプリを立ち上げ、メモアプリに書いておいたテキストをコピペして送る。
 一応間違いがないかチェックしつつ、もう一度自分でも歌詞について考えてみるが、特にピンとくるものはなかった。
 ついでにゲームをしながらのんびり待っていると、しばらくして通知音が鳴る。

<これは?>
 
 メガネのアイコン。渡部だ。

<グラスコフィンのライブで流れた曲>

 俺はすぐに返信をする。

<よく覚えてんな、そんなの>

 すると呆れたような言葉が返ってきた。
 ま、奴はライブにも全く興味がなかったみたいだし、仕方ないかもしれない。

<サイト見に行ったら、曲が無料でダウンロード出来るようになっててさ>
<二人とも、何の相談?>

 気がつけば画面に鏡のアイコンが現れ、立木が話題に入り込んできていた。

<いや、英語の歌詞の意味を知りたくて>
<ふーん>

 とりあえずそう書いてはみたものの、正直、彼女に全く期待はしていない。

<ところで、今度の夏祭り、みんなで行かない?>

 だけどそんなことも言えないしな……と思っていたら、強引に話題を変えられた。
 セリフの上で、浴衣を着た女の子のスタンプが踊る。そういえば、もうそんな時期か。それはとても魅力的な誘いだった。近所の大きな神社で行われる例大祭では、日中は神輿の担ぎ声が賑やかに響き、夜には屋台も沢山並んで、それなりの規模の花火も打ち上げられたりして、結構な人がやって来る。

<いいね! 27はタケたちと約束してるから、28がいいんだけど>

 早速した返信の後に、今度は不機嫌な表情をした浴衣の女の子が現れた。バリエーションあるんだ。

<えー、なんで佐倉の都合に合わせなきゃなんないの。めっけちゃんは?>
<俺は行くなんて一言も言ってないが>
<何の話?>

 そのうち和葉さんもやって来て、祭りの話題はさらに盛り上がりを見せる。和葉さんも乗り気なようだった。
 立木と渡部はともかく、和葉さんと一緒に祭りに行けるなんてワクワクする。
 浴衣とか着てくるのかな。きっと似合うだろうなぁ。
 そんなことを考えている間にも、会話はどんどん弾んでいく。

 ――その楽しいはずの夏祭りで、とんでもないことが起こるとは、その時の俺たちには知る由もなかった。

 ◇

 暗くなりかけの空に、カラフルな提灯が浮かぶ。それに負けないくらい色とりどりの装いで歩く人たちと喧騒を包み込む、食欲をそそるにおいの白い煙。
 祭りの日独特の、神聖さと野暮ったさが共存するような空気。あたりはすっかり非日常の空間へと変わっていた。
 少し早く着いた俺は、そんな景色をぼんやりと眺める。浴衣の人も、普段着の人もいるけど、その中に見知った顔はない。
 そういえば、家を出るときに姉貴の姿が見当たらなかったのが少し不安ではある。この格好を見られれば、きっとまたあれこれ言われただろうから、そこは好都合だったんだけど、和葉さんたちと一緒のところを見られたら、また恐ろしい質問攻めが始まるに違いない。
 そんなことを思い始めると、行きかう人たちの姿にも急に敏感になってしまう。
「目が女の人ばっかに行ってますけど? お兄さん」
「ひぃっ」
 そうして視線をうろうろさせていたところ、背後から突然かかる声。
 慌てて振り向くと、そこには引きつった顔の俺を見て、爆笑する立木がいた。
 それだけでも十分恥ずかしかったのに、隣には和葉さんもいる。
 ――和葉さんも、堪えてるつもりだろうけど、笑ってるのバレバレです。
「ち、違うんだって、もしかしたら姉貴も来てるんじゃないかって思ってさ」
「へー、佐倉ってシスコンなんだー」
「ちげーよ! だから……」
「お姉さんと仲いいっていいじゃない。私は兄妹いないから羨ましいな」
「だからー……」
 何か言い訳しなくちゃと目まぐるしく思考は巡りながらも、視線は和葉さんに向かってしまう。
 いつも会う時は、大体動きやすい服装であることが多いから、女の子らしさが強調されるような花柄の浴衣姿がとても新鮮で、まるで初対面の時みたいにドキドキした。
「どうだ、粋だろう」
 こちらは一番最後に来てドヤ顔の渡部。
「今、それどころじゃないから」
 別に興味ないし、誤解を解こうと躍起になっている俺に女子二人はまた笑った。
「ま、いいから行こうよ」
 立木はきらきらと光る屋台のほうを指差すと、和葉さんの手を取って歩き出す。軽やかに鳴りながら跳ねていく下駄を眺め、俺は大きく溜め息をついた。
「何の話だ?」
 そんな中、渡部だけが呑気だ。
「なんでもない」
 俺は言い捨てて、二人の後を追う。

「賑やかだね」
 立木と一緒に屋台で買ったりんご飴をかじりつつ、和葉さんは嬉しそうに言う。
 体の上下に合わせ、アップにした髪に飾られた小さな蝶がゆらゆらと揺れている。普段見ることのないうなじが目に飛び込んできて、またドキリとしたりして。
 ふと顔がこちらを向く気配がし、俺は慌てて持っていたイカ焼きにかじりついた。視線に気づかれたかな。そんなことはないと思うけど。
「おい、佐倉」
 その時後ろから名を呼ばれ、顔を上げる。話に夢中になっているカップルの姿が目前に迫っていて、俺は急いで体を横へと移動させた。
「ぼさっとしてんなよ」
「悪い、サンキュ」
 あのまま激突して真っ白な浴衣にイカ焼きのソースをくっつけてたら、こんな謝り方じゃ済まなかっただろう。それを思うと少しヒヤリとする。
 そんな渡部もカキ氷を食っていたりするが、時間が経つにつれ、段々と人通りが多くなってきている。こうやってのんびり食べ歩きが出来るのも今のうちだろう。
 それからもちょこちょこと出店を覗きつつ、まずはお参りをしようと大きな鳥居をくぐり、俺たちは拝殿へと繋がる石畳の上を進んだ。こちら側にも立ち並ぶ店が、街灯のように道や人の顔を明るく照らしている。
 拝殿に近づくにつれ、ばらばらに動いていた人の流れは次第にゆっくりと、整然としたものへ変わっていった。
「友達とお祭りに来たのってどのくらいぶりだろう? 小さい頃はあったんだけど」
 じりじりと進む列を待ちながら、和葉さんがぽつりと言った。
「立木とは来なかったの?」
 不思議に思って尋ねると、彼女は右隣にいる当人と少し顔を見合わせる。質問には立木が答えた。
「去年のお祭りの時は、まだ知り合ってなかったしねぇ」
「え、そうなんだ」
「私が今の家に引っ越してきたのは、高校に入る直前だから」
 長い付き合いがあるのだと思ってたから、意外だった。
 じゃあ俺も、ちょっと後輩ってだけじゃん。そう思うと、何だか嬉しい。
「それまで、あたしたちみたいな人はあんまり見かけなかったから、和葉さんと会えてすごく嬉しかったんだよね」
 近くに人がいるためか、立木は少し曖昧な言い方をする。
「ええ、私も。……しばらくは割と平和だったのよね。それが二ヶ月前くらいかな? 段々忙しくなってきて。その頃にりょうくんとも会ったんだよね」
「りょうくん? ――誰?」
「俺だよ。渡部椋。話の流れでわかるだろ」
「あ――え? ま、まあ……」
 こいつの下の名前を初めて知ったことよりも、和葉さんがすでにそっちで呼んでることに衝撃を受ける俺。それってすでに仲間って認めてるってことじゃん。いや、もう仲間でもいいけどさ。俺だけの特権だと思ってたのに!
「そういえば、遭遇する機会は多くなってるよな」
 そんな俺の動揺をよそに、涼しげな顔で話に加わるりょうくんこと渡部。――つーか今気づいたけど左に渡部がいるってことは、俺の隣って和葉さんじゃん。何それ、何で今まで気づかなかったの俺!?
「おい、ぼさっとしてんなよ」
 そんな思考で悶々としている間に到着していたらしく、さっきと同じ言葉で怒られる。
 急いで、先に賽銭箱の前まで進み出ていた三人と一緒に並び、賽銭を入れてから拍手を打つ。目を開けて隣を見ると、和葉さんはまだ目を閉じて手を合わせていた。
 何を祈ってるんだろう。その真摯な面差しに、目が釘付けになる。
 今まで一緒に活動してきて、隣にいることだって何度もあったのに、今日はこんなに意識してしまうのは何故なんだろうか。やっぱりそれは浴衣だったり、いつもとは違う環境のせいだったりするのかもしれない。
「あっ、射的がある! みんなでやらない?」
 お参りも無事に済ませ、もう少し屋台を見て回ろうとぶらぶらしていると、立木が明るい声を上げる。それに一番乗り気なのは和葉さんだった。
「私、こういうの得意」
 うんうん、イメージ通りというか、すごくわかる。
 特に誰からも異論は出なかったので、早速みんなでやってみることにした。頭に鉢巻を巻いた店のおっちゃんに小銭を渡し、まずは和葉さんが挑戦。
 白い電球に照らされ、棚に雑然と並ぶ景品を軽く見回してから、小さく頷く。
「まずは、あのお菓子にしようかな」
 銃を構える姿がサマになる。通りがかった数人の男のグループも、立ち止まってこっちを見ていた。
 僅かな緊張感の後、長い指先が引かれる。タンっという軽い音と共にコルクの弾が飛び、小さなお菓子の箱は、見事に赤い布の中へとダイブした。
「おめっとさん! お嬢ちゃん、上手いね」
 おっちゃんは人のよさそうな顔を皺だらけにし、景品を渡す。和葉さんは礼を言ってそれを受け取った。
「和葉さん流石!」
「すごいね!」
 彼女は俺たちの賛辞にも笑顔で応える。周りで見ていた人の中には拍手をしてくれる人もいて、それが自分のことのように誇らしかった。
「俺もやってみるか」
 やがて和葉さんの隣が空き、そこへと滑り込んだのは俺――ではなく、渡部。
 しまったと後悔する俺の前で、ヤツはすでにコルクの弾を銃に詰め込んでいる。こっちの視線には全く気づかず、眼鏡の位置を直してから銃を構えた。
 そして発射された弾は、あっさりと景品を落とす。
「めっけちゃんもやるじゃん!」
 立木のテンションもさらに上がっていった。
「負けないよ」
 和葉さんは微笑み、今度は丸いプラスチックのカプセルを狙う。
 一回目はかすっただけ。でも次の弾は綺麗に当たり、カプセルはころころと転がりながら落ちた。
 二人の攻防は一進一退。結局お互い五発の弾のうち、三発を命中させた。
「中々やるな」
 好敵手のように目配せをする二人に、俺のテンションはただ下がっていく一方だ。
 ――いや、ヘコんでなんかいられない。
「よし、俺も」
 俺は腕まくりをし、自分に気合を入れると、おっちゃんに金を払い、渡部からもぎ取るようにして銃を手にする。
 ここは絶対にいいところを見せなくては。
 狙うは……いい感じの置時計。あれをゲットして和葉さんに――。
「行くぞ」
 息を吐き、狙いを定める。
 いける、きっと当たる。――そう思いつつ発射したものの、弾は大きく逸れて赤い海へ。
「やった、当たった!」
 呆然とする俺の隣で、いつの間にか始めていた立木が、小さなぬいぐるみを落としたのが見えた。
 ――くそっ。
 俺は逸る気持ちを抑えながら銃を構え直し、少し迷ってから、また同じ時計を狙う。
 今度は少しかすった! だけど当たりが悪く、時計は動かない。もう少し当て方を変えてみようと、今度は照準位置をずらし、俺は再び意識を集中させる。
 ――今度こそ、当ててみせる。

「楽しかったねー」
「ま、あの程度なら楽勝だな」
 上機嫌の立木と渡部の隣で、和葉さんがちらと視線をこちらへ投げる。
 三人の背後をとぼとぼと歩いていた俺は、その視線から逃げるようにして手の中の小さなぬいぐるみを見た。
 何だよこの見たことないゆるキャラ。全然可愛くないし。
「そ、そろそろ花火もやるんだよね。どこが一番よく見えるかな?」
 俺が緑のぬいぐるみに心中で毒を吐いていると、和葉さんは話題を変えた。
「いいね! ……ほら、佐倉もいい加減すねてないで、ちゃっちゃと歩いて」
「馬鹿か。あれはどう考えたって落ちない的だろ」
 しかし、他二名は容赦ない。
「くっ……」
 悔しい。物凄く悔しい。渡部が言うことも事実だからさらに悔しい。
 今思い起こせば、和葉さんも渡部も別のを狙えと言っていたような気がするし、冷静に考えれば明らかにそうなんだけど、あの時の俺は冷静でなかったとしか言いようがない。さっさと他のターゲットに変えてればまだ勝算はあったのに、ムキになって何度も時計を狙ったりしたから。
 その後も何度もリトライしてたら、後ろで待ってたお客さんに睨まれるわ、店のおっちゃんには窘められるわ、あげくに立木にはお情けの景品を恵まれるわで散々だ。
 だけどこれ以上こうしているのも大人気ないし、余計に惨めだし、何より和葉さんを困らせたくないので、俺は言い返したいところをぐっと堪え、足を速めてみんなへと追いつく。
「去年より人、増えてない? 場所取れるかなぁ」
 立木はぼやきながら首を伸ばし、辺りを見回した。綺麗に見える場所というのはある程度決まっているから、花火目当ての人たちは大体同じように動く。方々から集まってきた人は自然に列になり、流れの遅い川のようになっていた。
「何だよ、危ないだろ」
 唐突に立ち止まった立木に、俺は思わず文句を垂れる。
「ねぇ、あそこ……何だろう?」
 彼女はそれには反応せず、俺たちが今目指している方向とは反対側を指差した。
 その辺りには木が沢山集まっていて、祭り会場の明かりからも離れているため、かなり暗い。
 目を凝らすと、確かに白っぽく見えるものが……落ちている?
「行ってみましょう」
 何かに気づいたのか、止める間もなくそちらへと向かう和葉さんを見て、俺たちも慌てて後を追った。
 次第に全貌をあらわす謎の物体。白っぽく見えたのは、白木の下駄だった。そしてその先には――人の足。
 誰かが倒れてるのだということが理解できるまでに近づくと、俺たちは足を止め、無言で顔を見合わせる。
 男の人だった。浴衣を着て、横向きに倒れている。
 喉を唾が通る。ここは男の俺が――と意を決するよりも早く、和葉さんがその人のそばに屈みこんだ。
「寝てる……のかな」
 しかし、次に発せられた言葉は、至極平和なもの。
 言われて耳を済ませてみると、確かに寝息のような不規則な音が聞こえるし、胸のあたりも動いている。
 一瞬よぎった最悪の想像は現実にはならなかったと知り、安心感で体の力が一気に抜けた。
「何だよ……驚くじゃんか」
「ほんと、人騒がせだよねー」
 まるで他人事のように言う立木を、俺は呆れ顔で見る。
「立木が神妙な顔して指差すからだろ」
「ごめんごめん」
 笑う俺たちとは違って、和葉さんはまだ納得がいかないようだった。
「でも、こんなところで寝てるのっておかしくない?」
「確かにそうだけど、酔っ払ったんじゃないかな?」
 ここからは木が邪魔で花火は見えないから、近くに人の姿はない。夜になってもこの蒸し暑さだから風邪を引くことはないだろうけど、こんな茂みで寝ていれば、あちこち蚊に食われてしまいそうだ。
「カキ氷でか?」
 渡部がぼそっと口を挟む。
 ヤツが指差した地面には、転がった紙のカップと、中身がぶちまけられたカキ氷。
 俺たちはまた、顔を見合わせた。
「あの、大丈夫ですか? 起きてください!」
 和葉さんが体を揺すって呼びかけても、彼は全く起きる気配を見せない。
「救急車、呼んだほうがいいのかな……?」
 立木がそう呟くものの、近づく気配をうるさげに手で払って、ぽりぽりと首筋を掻く姿は、どう見ても呑気に眠っているようにしか見えなかった。
「――誰だ!?」
 唐突に鋭い声が飛ぶ。――声の主は渡部だった。
「どうした?」
「今、物音が――」
 視線を周囲に向けたままの言葉が終わらないうちに、今度は少し離れた茂みからはっきりと音がし、そこから黒い影が飛び出す。
「待ちなさい!」
 和葉さんも声を上げ、先に走り出した渡部に続いた。
「何やってんの、追いかけるよ!」
 立木に言われ、俺も慌てて不審者を追跡する。

 所々で悲鳴が上がる。
 暗い色のTシャツが、色鮮やかな浴衣に紛れ込んでいく。俺たちは全力で追うが、人ごみに邪魔されて中々上手くいかない。
 背格好からして男だろう。逃げにくいのは向こうも同じだとは思うが、動きはずいぶんとスムーズだ。多分、走りやすい靴を履いているんじゃないだろうか。それに対してこっちは全員下駄。かなりきつい。
 時々人にぶつかり、謝りながら、俺はとにかく必死で走った。前を行く和葉さんたちも同じようにしながら何とか進む。
 屋台や提灯が煌々と照らす隙間には時折ぽっかりと小さな闇が落ちていて、その中に男の背中は消えたり、また現れたりした。
 このまま行けば街へと出てしまう。そうしたらもう、追いつけないかもしれない。
「あら、ごめんなさい」
「す、すいません!」
 そんなことを考えていたところ、これで何度目になるのか、俺は長身の女性にぶつかりそうになってしまった。
 顔もはっきり見ないままにひたすら謝り、すぐその場を後にする。
 もしかしたら嫌な思いをさせてしまったかもしれない。心の中でもう一度謝り、状況が状況だからと自分を納得させながら、とにかく前に進むことを考えた。さっきの人のものと思われる、強い香水のにおいが少しだけ後をついてくる。
 やがて人の姿がまばらになり、開ける視界。
 駐車場となっている広いスペースにも、幾つか屋台が出ている。そこには肩を上下させながら周囲を見回す、和葉さんと渡部の姿があった。
「あい……つは?」
 息を切らせつつ俺が聞くと、渡部は首を横に振る。
「見失った」
 俺も途方に暮れて、光るライトが流れる車道を眺めた。
「一度さっきの場所に戻ろうか。あの人から話が聞けるかもしれないし、何か手がかりも見つかるかも」
 和葉さんの意見に俺たちは頷き、来た道を戻ることにする。
「あれ? ……立木は?」
 その時初めて、前を行っていたはずの立木の姿が見えなくなっていることに、俺は気づいた。
「一緒じゃなかったの?」
「いや、俺より先に走り出したはずなんだけど……」
 人の波に揉まれているうちに、いつの間にか俺の方が先になっていたらしい。振り返っても、こちらへと向かってくる姿はない。
 携帯を耳に当てている和葉さんを見る。彼女は小さく首を振った。そして通話を切るが早いか、来た道を戻り出した。
「まなちゃん!」
「立木!」
「立木ー!」
 呼びかけながら探しても、見慣れた姿も見えず、声も返ってこない。
 その時、どんっ、という音と共に、空がぱっと明るくなる。ここからは花火の様子はきちんと見えないはずだし、それを確かめる余裕もなかったけれど、ぱらぱらぱらぱらっと散っていく音だけは、やけにはっきりと耳の中に残った。
 来た時よりもずっと走りやすくなった道。さっきもこうだったら、きっとはぐれたりはしなかったのに。
 胸が重苦しいのは、走っているせいだけじゃなかった。
「まなちゃん!」
 和葉さんの悲痛な声が、また上がる。
 立て続けに空を震わす大きな音と人々の歓声に、不安に力を失っていく俺たちの呼び声は、あっけなくかき消されてしまう。何事かとこちらを訝しがる人はたまにいても、すぐにその興味は花火のほうへと戻っていった。

 それから俺たちは、ずっと立木を探し続けた。
 でも花火も終わり、ざわめきと共に人の数が減っていっても、その姿は、どこにも見当たらなかった。

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