Spinner’s Song

「渡部!」
 思わず声を出してしまったが、もちろんそれが届くはずなんかない。俺は窓に張り付いたまま、すでに速いスピードで流れている景色を呆然と眺める。
 我に返って携帯を出し、電話をかけてみた。コール音は鳴り続け、やがて留守電になる。
「くそっ、何なんだよあいつ!」
 隣の駅までは五分程度のはず。仮にすぐ電車が来て戻れたとしても、行方をくらますには十分な時間がある。
「たかやくん」
 その時、和葉さんが小さく言って俺のTシャツの袖を引っ張った。顔を向ければ、彼女の肩越しに沢山の好奇の視線が。俺は戸惑った顔のまま、別のドア付近まで引っ張られていく。
「今は落ち着こう?」
 和葉さんは、まだこっちを見ている周囲を少しだけ気にしながら、穏やかに言った。
 そこにはさっきまでの無理をしたような雰囲気は全くない。感化されたように、俺の気持ちも徐々に落ち着いてきた。
 今電車の中で騒いだところでどうにもならないのも確かだ。小さく頷けば、ほっとしたような微笑みが返ってくる。
 ――しっかりしろ。
 そう自分に言い聞かせると、ぐっと拳を握り締め、俺はもう一度窓の外を見る。

 俺たちは次の駅ですぐに引き返し、再びホームへと降り立った。
 幸い電車はすぐにやってきたから、時間のロスは大したことはない。でも、渡部が待っていてくれたりも当然しなかった。さっきよりも人が少ないホームは広々として見える。携帯はついに電源が切られたらしい。
 立木の時と同じだ。何でこんなことになってしまったのか、さっぱりわからない。
 和葉さんと一瞬顔を見合わせてから、階段へと急ぐ。下りながらも、そして下りてからも、行きかう人たちの中に見慣れたシャツと眼鏡を探したが、それらしき姿は全く目の中に飛び込んでは来なかった。
 代わりに改札の窓口にいる眼鏡の駅員が目に留まり、俺は吸い寄せられるようにそっちへと向かう。
「すいません」
「はい」
 まだ若い駅員は、渡部とは似ても似つかない優しげな目でこっちを見る。
「あの、ここ――十五分くらいの間に、白いシャツ着てメガネかけた人、高校生なんですけど、通りませんでした?」
「はぁ……いたような、いなかったような」
 面食らったような駅員に、それから先、何と聞いたらいいのかわからない。
 あいつは連れ去られたわけじゃなく、自分から歩いていった。よっぽど挙動不審ならともかく、普通に通ったなら注目なんかしてないだろう。
「じゃあ……」
 カメラの映像――と言いかけて、俺は口をつぐむ。そんなの、一般人に見せてくれるわけないじゃないか。
「すみません、ありがとうございました」
 和葉さんが横から言って、俺の腕を引っ張る。駅員は訳がわからないという表情のまま軽く頭を下げ、ICカードを指差しながらやって来たおばさんに対応し始めた。
 俺たちは行きかう人を避け、ひとまず端っこの方へと寄る。
「この改札を通ったとは限らないよね。それに……私たちが行った後、引き返すことも出来る」
 それはそうだ。俺たちが見ていない間、ヤツがどう動いたかはわからない。別の改札を通ることも、引き返して快速に乗ることも、反対側の電車にだって乗れる。
「うん……でも、どうすればいいんだろう」
 それきりお互いから言葉が出なくなり、ただ時間が過ぎようとした時、ポケットの中で震えながら携帯が鳴った。俺は急いでそれを引っ張り出し、目の前へと持ってくる。
 しかし、そこに出ているのは、望んでもいない名前。
「……どうしたの?」
 緊張した面持ちで見守っていた和葉さんが聞いてくる。その間にも着信音は鳴り続けた。
「いや……姉貴からで」
 何でこの大変な時に、どうでもいい用事で電話してくるかな。いや、どうでもいいかはわからないんだけど、絶対どうでもいい用事だと思う。
 そのままぼんやり画面を眺めていると、やがて留守電に切り替わった。――が、メッセージが入った形跡もなく、すぐにまた電話がかかってくる。相変わらずしつこい。
「出たほうがいいんじゃない?」
「いや、でもさ」
「大事な用かもしれないし、何か――二人を探す手がかりが見つかるかもしれないし」
 大事な用ってことは一切ないとは思うが、言われてみれば、姉貴の情報網はバカに出来ないかもしれない。
 祭りの日は会いたくない一心でびくびくしていたけど、あの時にも本当にうろうろしてて、立木のことも目撃してくれてたらいいのにと無責任なことを思う。
 俺はあと少しだけ迷ってから、二度目の留守電に繋がる前に電話に出た。
「ハロハロー! マイブラザー?」
 うわ、テンションたけぇ。
 耳に当たるでかい声に、俺は思わず携帯を遠ざける。
「何の用だよ」
 ついイラッときて、抑え込んだ感情が漏れ出してしまう。こっちはそんな気分じゃないのに。
「あららー? もしかしてまなちゃんと一緒かな?」
 ――ハズレだ。
 俺は、大きく溜め息をつく。
 それをどう取ったのか、姉貴は『ふーん』と言ってから話を続けた。
『この前さ、あたしに用事があるって言ってたらしいじゃん』
 うわ、やっぱり激しくどうでもいいことだった。――いや、実際用事があったんだけど、何もこのタイミングでじゃなくても。
 正直それどころじゃないんだけど、変な切り方をすると余計に食い下がってくるのが目に見えていたので、俺はさっさと会話を打ち切る方針へと変えた。
「あー、えっと……俺、ばあちゃん家から持ってきた童話全集がどうしても頭に入らなくてさ。何かきっかけがあったような気がすんだけど、何だったかなって。姉ちゃんなら何か知ってるかと思って」
『ああ――はいはいはいはいはい、おねーさんに任せなさい』
 ふつふつと湧き出してくるイライラをぷちぷちと潰しながら、俺は黙って次の言葉を待った。
『おばあちゃんね、あたしたちのために張り切って童話全集買ったらしいんだけど、読むのがすっごく下手でさぁ。タカは小さい割に空気読むっていうか、大人しい子だったから、あたしが逃げた後もずっと我慢して聞いてたみたいだけどね。あんまり我慢しすぎて、熱出しちゃったりとか。あはは』
 あははじゃねーよ。
 でも、何だかそれだけでストン、と文字通りもやもやしたものが腑に落ちた感覚があった。

『おとこ、は……ぐっすり、ぐっすりーねむって、しまいしまい、ま……した』

 あの声は、昔のばあちゃんの声だ。
 よっぽど読み聞かせが苦手だったのか、上手く読もうとして緊張したのかはわからないけど、とにかく噛み噛みで抑揚もなく、読むのに必死すぎて、人に聞かせようっていう気が全くないような感じで、話の内容も全くわからないし、だからもちろんワクワクドキドキもするわけないし、恐ろしくつまらない時間だった。
 妙な突っかかり方や、予測の出来ない読み方をするから、寝てしまうことすら出来なくて。
 でも、ばあちゃんが俺たちのために一生懸命やってくれてるっていうのは子供ながらに理解できたし、物語はつまんなくても、必死なばあちゃんの様子は時々――本当に時々だけど、面白かった覚えがある。

『そういう事情もあって、タカは童話が苦手になったみたい』
 そこまでわかってて何も言わなかったのか、こいつは。
『というわけだから、それじゃね! あたしも忙しいし!』
 話したことでスッキリしたのか、姉貴は爽やかな声で恩着せがましい一言を付け加え、さっさと電話を切った。
「お姉さん、何だって?」
「いや、すごくどうでもいい話。ごめん、こんな時に」
 謎の現象に納得がいったのは良かったんだけど、今の時点ではどうでもいい話なのに変わりはない。
「ううん」
 謝る俺に、どこか上の空で答えてから、和葉さんは言葉を続けた。
「さっきのって、この前のライブで流れてた曲? 着信音」
「……ああ、うん」
 そういえば、着信音を”Neon’s Springs”にしてたんだった。この曲好きすぎだろ、俺。
「あのバンドのブログから、ダウンロード出来るようになっててさ」
「そういえば、この前グループで何か話してなかった?」
「えっと、歌詞について知りたくて、渡部に聞いてたんだけど」
 あの後立木が割り込んできて、すぐに祭りの話になったから、和葉さんはあまりちゃんと見てなかったんだろう。
「……その歌詞って、今も持ってる?」
「持ってるけど」
 意図がよくわからず、少し戸惑ったが、とりあえずメモアプリでテキストを開いて見せた。
「”Neon’s Springs”……」
「変わった歌詞だよね。”Glass Coffin”のオーナーの仁科って人が作詞したんだって」
「オーナー……確かライブハウスの名前もその人の趣味って言ってたよね」
 そういえば、店長がそんなことを言ってたような。
 和葉さんはあごに手を当て、しばらくそれをじっと見ていたが、やがて口を開いた。
「たかやくん。――新宿に行きましょう」

 ◇

<わかったよ>

 電車に乗ってからも、ずっと携帯の画面を睨み、時折指を忙しなく動かしていた和葉さんからメッセージが届いたのは、もう新宿駅に到着しようかという頃だった。

<わかったって?>
<アナグラムになってるんだわ>

 意味が全くわからず問い返そうとしたその時、車内にアナウンスが流れ、周囲の人がそわそわし始める。
 仕方なく俺たちも、開いたドアに吸い込まれるように出て行く人の流れに混じり、ホームへと降り立った。
 ざわざわとした周囲に気を配りながら、俺たちはそれぞれ別の柱を背にして携帯のディスプレイに指を走らせ、無言の会話を続ける。

<文字を組み替えて、別の言葉を作るの。例えばタイトル。”Neon’s Springs”は、”Spinner’s Song”と変えることが出来る。訳すと――『紡ぎ手の歌』、かな>

 俺が聞く前に、しっかりと説明が送られてきた。ずっと違和感のあったタイトルだったが、まさかそんな仕掛けがあるとは思ってもみなかった。視線を上げ、指を動かしている和葉さんをちらりと見る。じきに次の説明がやってくるだろう。
 人が見れば奇妙に映るかもしれないが、和葉さんのアイディアをすんなり受け入れられたのは、もうこれ以上失敗できないと思ったからだった。立木と渡部の携帯のこともあるから、今までのグループは使わず、一対一でメッセージのやり取りをしている。

<この歌詞には4ヵ所、同じように文字を入れ替えられる部分が出てくる。”Heal Liar Rule”、”Bale Hank rend hen”、”Heal Flour”、”Arid Bee”>

 俺はもう、意味のない相槌を打とうとするのをやめた。次の言葉がやってくるのを待つ。

<それぞれ、”Allerleirauh”、”Hahnenbalken”、”Die Rabe”、”Frau Holle”と変えることが出来るの>

 それが何を指した言葉なのか、曲のタイトルからして明らかだ。
 暑さのせいだけじゃない汗が、俺の額を滑って落ちる。

<英語じゃない。原題に使われてるドイツ語。アナグラムを自動で作ってくれるサイトがあったから助かった。それぞれ――『千匹皮』、『うつばり』、『おおがらす』、『ホレおばさん』>

 ◇

「思ったより時間がかかっちゃった。急ぎましょう」
 俺は黙って頷き、人にぶつからないように気をつけながら、さらに足を速める。
 駅に着いた俺たちが、目的地に向かうまでに一時間もかかってしまったのは、メッセージのやり取りに没頭していたからばかりではない。それなりの準備が必要だったからだ。
 少し坂になった大きな通りを上り、目に鮮やかな黄色い看板のラーメン屋の前を通り抜けて見えてくる細い路地を左へ。
 一度しか通っていない道だけど、やけに懐かしい感じがした。あの時にはもう二人いて、くだらない話をしたりして。
 そんな感傷に浸れば、胃の辺りがきゅっと締め付けられるような感じになる。そういえば、朝食以来、食べ物を口にしてないことに気づく。熱中症になったら困るから水分は取ってるが、一緒に買ったバランス栄養食はバッグに入りっぱなしになっていた。
 うねる路地は表通りに比べて、人通りがほとんどない。気ばかりが焦って、足の動きと一致しない感覚。今日はずっと歩き回っているから、あちこちが重たくなっていた。
「見えてきた」
 和葉さんの声で、少し歩くスピードを緩める。肺は酸素を求めているのに、緊張が自由な呼吸を許さない。また噴き出す汗を拭いながら、見覚えのある建物を睨んだ。
「……看板がない」
 入り口へと近づくと、そこにあったはずの”Glass Coffin”という小さなスタンド看板は出ていない。
 地下へと続く階段には明かりはついておらず、まだ日はあるのに薄暗かった。
「とにかく、行ってみましょう」
 同じく小さい声で言った和葉さんに俺は頷く。ここまで来たら、進むしかない。
「俺が行くよ」
 返事を待たずに、俺は狭い階段を静かに下り始めた。
 その先のドアは閉じられ、『CLOSED』の札がかかっている。耳を済ませても、中からは何も聞こえない。試しにドアノブに触れ、ゆっくりと回してみるが、当然鍵はかかっていた。
 どうしたものか。そう思って振り向き、薄闇の中に蠢くものを見て声を上げそうになった俺に、しっと人差し指が立てられる。その正体は、茨だった。
 和葉さんは俺へどくように合図をし、ドアにあった僅かな隙間から、茨を忍び込ませる。
 少しの間を置き、鍵が開く音が微かにした。
 ドアを注意して開き、もしこれが間違いだったら……と怯えながら、一方で、そんなことはちっとも信じていない自分がいることにも気づく。
 中はさらに暗い。一度来て、精一杯観察したので、大体の様子は覚えている。次第に目も慣れてきて、どこに何があるかも大分わかるようになってきた。
 一通り見回しても、特に注目するようなものはない。背中をつつかれて振り向けば、和葉さんがバックヤードのほうを指差していた。
 俺は黙って大きく頷き、息を潜めてゆっくり静かに足を進める。
 じわり、じわりとバックヤードが近づいてきたその時――視界が、急に明るくなった。
 つけられた照明の眩しさに目を細め、凝らしたその先には、黒いTシャツを着た男の姿。
「不法侵入なんて、いい度胸じゃない。警察呼ぶわよ」
 店長だった。以前に会った時の優しげな雰囲気は微塵もなく、その風貌をますます厳つく見せている。
「呼べるの?」
 息を呑む俺の隣で、和葉さんははっきりと言う。
「呼んでみなさいよ」
 俺も黙ったまま店長を睨めつけるが、内心は穏やかじゃない。少しでも動けば破裂してしまうんじゃないだろうかと思えるほどの緊張感。
 それが何分とも思えるほどに続いたところで、店長が鼻を鳴らした。
 同時に、和葉さんの足下に控えていた茨も素早く動く。蠢く緑に取り囲まれても、店長は微動だにしない。
 しっかり見ているはずだ。だけどお互いに、何も感じていないようだった。それが意味することは明らかだ。
「二人はどこ?」
「あら、二人って誰のこと? お名前は?」
「ふざけないで!」
「あたしの能力、眠らせる気?」
 激昂する和葉さんに、店長は不敵に笑う。
「そうしたら、名無しの誰かさんとはずーっと会えないままね」
 再び沈黙が訪れた。茨だけが、迷うようにゆらゆらと揺れる。
 やがてそれらは、じりじりと引き下がり始めた。
「おりこうさんね。――ついてきなさい」
 店長はもう一度笑い、手招きをする。
 俺たちは顔を見合わせた。でも、選択肢は一つだった。

 バックヤードへと入り、積まれたダンボールの間を抜けていった先で、店長が何やら床をごそごそとやると、ぽっかりと開く闇が現れた。どうやら、さらに地下へと続く道があるらしい。そこには階段ではなく、梯子がかかっている。店長は慣れた様子でさっさと下りていった。
 和葉さんも腰に提げたバッグを軽く叩いてから続く。俺は思わず止まりそうになる足を何とか持ち上げ、その後を追った。
 たどり着いた場所は、地下室というよりも、ログハウスの中みたいだと思った。必要最低限の家具があり、当然窓はないが、天井からさがっているシンプルなデザインのライトにより十分明るい。部屋の中央には花柄のカーテンが引かれ、その先を覆い隠している。
 店長は俺たちが到着したのを知ると、ゆったりと時間をかけて振り返った。
 それから余裕の笑みを浮かべようとしたのだろう。でもその表情は、こちらを見て凍りつく。

 ◇

<『おおがらす』、やっぱりいたんだ>

 並んだ『紡ぎ手』の名前を見て走らせた俺の言葉は、フキダシの中に閉じ込められて画面へと浮かび上がる。

<ええ。でもそうなると、どうやって二人を操ったか、になる>
<俺たち、変なもの飲み食いしてないよね?>
 『おおがらす』の名前が出てから、俺たちはずっとそれに気をつけてきた。それでも、渡部は姿を消してしまった。
<もしかしたら、食べるという形じゃなくても良いのかもしれない。それなら、針のようなものを使うとか、あとはガスとか……そうか!>
 和葉さんの台詞も、心なしか興奮しているように見える。俺の中に、様々な映像がフラッシュバックした。
<電車の中にいた香害男だ! そういえば祭りの日も、怪しい女とぶつかりそうになったよ!>
 和葉さんたちは出会わなかったようだが、あの女も強い香りを放っていた。
<だとしたらあの時、不審者は二人で行動してたんじゃないかしら。私たちが追ったのは、囮だった>
<囮?>
<私たちに追われている最中に一瞬にして姿を変え、そのまま何食わぬ顔をして戻ってくる。女の姿で。『千匹皮』であれば可能なはずよ。それから多分――魔法の鏡から姿を隠すことも>

 ◇

「あんたたち!? なんなのそのカッコ!?」
 ヤツが見たのは、防毒マスクをつけた俺たちの姿だ。趣味の塗装とかでも使われるような小型のものだが、この驚き方だと、効果があるということなんだろう。
「どんなカッコしてようが、関係ないだろ」
「二人を早く返してもらいましょうか」
 声がどうしてもくぐもってしまうが、致し方ない。するりと伸びた茨たちに、店長は顔色を変えて後ずさり、カーテンに手を掛けた。
「こより! 起きなさい!」
 そしてそのまま半分ほど開け放つ。
 その先には、キングサイズというんだろうか。大きなベッドがあった。ふかふかの真っ白な布団が、まるで泡みたいに乗っかっている。
 そこに埋もれるようにして、黒いさらさらの髪の下にある小さな目が二つ、こっちをおどおどと見ていた。
 女の子――小学生くらいかもしれない。目が合うと驚いたように顔を引っ込めたが、まさか小さな女の子がこんなところにいると思わなかったので驚いてしまう。
「こより、見て! 悪者が来たわよ! あんなにこわーいカッコして、あのトゲトゲの草で、あたしたちをいじめるの!」
「はっ、どっちがだよ!」
 あまりに理不尽すぎる言い草に、文句の一つだって言いたくなる。確かに格好はちょっとばかり怪しいかもしれないけどさ。
 和葉さんも怯える女の子に戸惑い、距離を取りながらも、茨の包囲を少しずつ狭めていった。店長は緊張した面持ちで、じりじりとベッドのほうへと後退して行く。
 こいつが『千匹皮』なら、恐らく変装以上の能力は持っていないはずだ。あの時ぶつかった女は長身だった。この男とちょうど同じくらいだったかもしれない。
 和葉さんが視線を一瞬、こちらへと投げる。俺は頷き、意識を集中した。
 茨はさらに青々として強靭さを増し、その数も増やしていく――イメージと現実は重なり、和葉さんの力となる。
 とん、と和葉さんの靴先が床を鳴らした。同時に茨は渦となり、店長へと襲い掛かる。ヤツは悲鳴を上げながら、まだ閉まっているカーテンへと隠れた。茨はそれを易々と切り裂き、掴まっていた体は床へと投げ出される。
 ぱっと、真っ白な羽毛が舞うのが見えた。
 ぼろぼろになったカーテンの向こう側には、店長の他に、黒い服を着た男が隠れていた。あの、電車にいた男に間違いない。その少し引きつったような表情に、少しだけ気分が晴れる。
 だけど――それはあっという間に曇ってしまった。
 そこにはさらに、別のものが隠されていたからだ。
 それは彫像のように見えた。真っ黒に塗り固められたような二体の、その顔。
「まなちゃん!?」
「渡部!?」
 そんな――いや、でも。
 驚愕のあまり、頭が真っ白になる。
「パパを攫ったのもこいつらなのよ!」
 動きを止めた俺たちを見てチャンスだと思ったのか、店長がまた意味不明なことを叫んだ。
「パパと会えなくなってもいいの!? こより!」
 ぱぁっと、また真っ白な羽が部屋に舞う。
「――和葉さん!?」
 その体も一瞬、羽に包まれたかのように見えた。
 和葉さんが飛び退こうとしたのはわかった。でもその足は地面に縫い付けられたかのように動かず、思わずバランスを崩したままの形で固まっていく。
 ――足先から、黒い色が這い上がってきていた。
 和葉さんの顔が恐怖に染まる。茨がのた打ち回った。俺は慌てて手助けをしようと意識を集中させたが、幾ら試してもイメージは、形にならずにぼろぼろと崩れていってしまう。
 飛び散ったイメージのかけらは、真っ白な羽毛になってぶわっと部屋を舞い狂った。

 今になって考えれば、詰めが甘かったと思う。
 でもその時の俺たちには時間がなくて、とにかく必死で、立木と渡部を手にかけた『おおがらす』を何とかしなきゃという思いで精一杯だった。
 だけどもっと冷静になれたなら、俺はともかく、和葉さんが気づかないはずはなかったんだ。
 その地下室こそが『ホレおばさん』の家で、そこの主人は『彼女』なんだってことに。

 衝撃に打ち震えながらも、何とか和葉さんを助けようと動いた俺の体は羽交い絞めにされ、それ以上進めなくなってしまう。滅茶苦茶に暴れたが、俺の力では腕はほどけない。そのうち足も押さえつけられ、絞られるような痛みが走った。その痛みは、後ろ手に回された手首にも起こる。
 何度『いばら姫』の力を増幅しようと懸命にもがいても、同じようにイメージは砕け散り、和葉さんの元まで届きもしない。蠢く茨も、助けを求めるように開かれた瞳も、程なくして漆黒に染まった。
「和葉さん!」
 滲む視界の中、叫んだ声だけが、虚しく部屋に反響する。
 そして俺は、ついに一人になった。

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