語り手の領域

 拘束され、防毒マスクを奪われた俺は乱暴に転がされる。真っ白になった頭の中には、打ち付けられた痛みもどこか他人事のように響いた。
 床の木目をぼんやりと見ていると、耳の中に笑い声が飛び込んでくる。
「よく出来たわね。こより。どうせならこいつも固めちゃってよ」
 少し遅れて、女の子の苦しそうな声が聞こえてきた。
「もう、無理……なの」
「ま、いいわ。どうせ一人じゃなーんにも出来ないんだし」
 その言葉は俺の胸を鋭くえぐる。一時の衝撃が過ぎると、体の痛みも急速に増してきて、現実から目を逸らすことを許してはくれなかった。
 どうしたらいい? ――どうしたら。
 繰り返される問いへの答え代わりに脳裏へと浮かぶのは、足下から真っ黒に染まっていく和葉さんや、彫像のようになった立木と渡部の姿。俺がこのまま床を見続けてたって、それがなかったことになるはずもない。
 もう、俺しか残っていない。それは曲げられない事実。
 何ができるかなんてわからなかったけど、このまま終わりになるのだけは絶対に嫌だった。
 首をゆっくりと動かし、視線を上げる。歪んだ笑みを浮かべる二人の男と、ベッドの上で布団を被り、怯えた目を覗かせる女の子の姿が斜めに見える。
「何だ? その目」
 香害男は低い声で言って近づいてきて、靴先で俺を小突くようにした。睨み返すと、今度は思い切り蹴り飛ばされる。
「――っ!!」
 体は床を滑り、近くの柱に叩きつけられた。顔と背中を打ち、痛みと息苦しさが襲ってくる。咳き込む俺を、男はまた愉しげに見た。
「可哀想じゃない、やめてあげてよ」
 店長もそう言いながら、けらけらと笑う。
 俺は痺れた口の中に広がる血の味を感じながら、ぎゅっと目を閉じた。怒りと悔しさで体が熱いのに、絶望感で全身の力が抜けていくかのようだった。
 これじゃ駄目だ。ちゃんと考えないと。
 でも頭の中がぐちゃぐちゃで、何を考えたらいいのかすら正直わからない。とにかく何かヒントになることはないかと記憶の中に手を伸ばし、無茶苦茶に探し回る。――その指先に引っかかったのは、何度も聞いたギターの音だった。
 そうだ、”Spinner’s Song”。紡ぎ手の歌。おおがらす、千匹皮、うつばり、ホレおばさん。
 俺は何度かその単語を脳内で繰り返した。そこで気づく。単純なことだった。
 歌詞に登場する『紡ぎ手』は四人。でも、ここにいるのは三人。あと一人は一体どこへいったんだろう。
 ここには来ていないだけなのかもしれない。――いや、そもそも何故、あの歌詞の中にわざわざ暗号みたいにして名前が忍ばせてあったのか。
 ――もしかしたら。
 ゆっくりと顔を動かし、もう一度視線を上げると、そこにはこちらを見下ろす店長の顔があった。
「あんた、そろそろ諦めたら? それとも、あたしたちの仲間になる?」
 冗談じゃない。
 心の中ではそう言いながらも、実際に俺がしたことといえば、ぎりぎりと奥歯を噛み締めることだけだった。理不尽に蹴り飛ばされた痛みと驚きは、まだ体に残っている。前方が店長に遮られていて、こよりと呼ばれた子の姿を確認することは出来ない。大きな声で話せば聞こえるだろうが、そこまでして押し通す意味があることなのか、自信は持てなかった。
 俺の迷いをどう取ったのか、店長は笑い含みの声で続ける。
「あんたは物語を面白くして、力を強くできるらしいじゃない。大人しく協力するなら、悪いようにはしないわよ」
 ふと。
 その言葉が、記憶を刺激した。俺の中で、ばらばらだったものが一つにつながったという感覚が生まれる。
 ああ……そうだ。そういうことなのかもしれない。俺は店長を無視し、部屋の中をひたすら見回した。
「おい」
 すると香害男がイライラと近寄ってきて、また俺を足蹴にする。
「――っはっ!」
 抵抗も出来ず、口から声にならない声が漏れ出した。胸の辺りに鋭い痛みが走り、思わず反対側へと芋虫のように転がる。目の端には涙が滲んだが、それをこぼさないようにまた奥歯に力を入れ、目の前の柱をにらみつけた。
「もうそれくらいにしなよ。こよりが怯えるでしょ」
「だってよ、ムカつくだろコイツ。いい気になりやがって」
 二人の会話と、防毒マスクがぐしゃりと潰れる音を背中で聞きながら、俺は部屋の全体像を思い浮かべる。
 上手くいくかどうかはわからない。チャンスはきっと、何も出来ないと思われてる今の間だけ。
 体の痛みだけじゃなく、鼓動も速まり、呼吸が苦しくなる。落ち着け――落ち着け俺。イメージ。イメージが大事だ。
 繰り返し繰り返し自分に言い聞かせながら、意識を壁に這わせていく。
 所々ささくれ立つ、木の連なる表面。もう少し先には小さな椅子が置いてあり、それから破れた花柄のカーテンがある。部屋の角を回りこんで――。

『語り手って、物語を面白く出来るでしょ?』

 立木も確か、そう言ったんだ。 
 流れで納得しちゃったところがあるけど、思えば最初から、違和感があったんだと思う。
 語り手は、必ずしも話を面白くしたりはしない。それは俺が、身をもって知っている。
「――ゃっ」
「こより、どうしたの?」
 小さな悲鳴が聞こえた。手ごたえを感じると同時に、もう後戻りは出来ないという思いが膨れ上がる。
 余計なことを考えてる暇はない。俺は再びイメージの中へと没頭した。――背後から忍び寄り、ベッドを包み込んだ影の中から、無数の手が生み出されていく。
「ゃっ――やめて」
 彼女の声が恐怖に歪んだ。
 影の手はベッドを揺さぶり、真っ白な羽根布団を剥ぎ取り、主をその玉座から引き摺り下ろそうとする。
「いやっ! いやぁっ!」
 暴れるようなばたばたという音。布団を頭からすっぽりと被ったのか、悲鳴がくぐもる。俺のイメージの中だけではなく、ベッドも家具も実際に揺れ始め、にわかに部屋の中が騒々しくなった。
「どうした!? 何が起こってる!?」
「こより! しっかりしなさい! ――これ、あんたがやってんの!?」
 ――気づかれた。
 足音が迫り、肩を掴まれる。でも、ここで集中を切らすわけにはいかない。
 俺は目の前の壁を睨みつけたまま、さらにイメージを暴れさせた。影の手はベッドをひっくり返し、カーテンを引き裂き、家の中を滅茶苦茶にする。それに合わせて家具だけではなく、部屋全体がガタガタと揺れ始めた。何かが落ちて割れる音がする。肩にあった手も揺れに耐えられず離れていったが、俺の体も波打つ床に激しく上下した。
「ふざけんなクソガキが!」
 今度は別の声。俺は体を捻るようにして振り返り、震動に耐える香害男へと影の手を襲い掛からせた。幾つかの影の手は男の手足の動きを封じ、また別の手はすさまじい速さで殴りつける。それで実際に顔面が歪むことはなかったものの、踏ん張っていた足はかくん、と突然力を失った。
「てめぇ――なっ」
「どうしたの篤志? 大丈夫!?」
「急に……力が」
 へなへなと座り込んだ男を店長が支えた。それと同時に、部屋の揺れがぴたりとおさまる。
 迷うな! ――俺は自分を叱りつけ、影の手を分散させた。頭がきりきりと痛んで眩暈がする。唇を噛み締め、薄れかけたイメージを描き直し、改めてベッドの方へも向かわせた。
 ――が。
「――ぐっ!」
 二度目の壁への激突。
 一瞬息が止まったが、すぐに顔を上げて前を見据える。突き飛ばしたのは、ノーマークになっていた店長だった。俺は荒い息を立てながら、香害男の姿を探す。
 目が合うとヤツは、にやりと笑った。その不気味さに背筋がぞくりとする。
 ――まだ諦めるわけにはいかない。俺は散り散りになった影を弾丸の形にし、部屋中に降らせた。ありったけの力を込めて。ありったけの――!
「くっ――」
 ずきり、と胸が痛む。集中が途切れ、イメージは一瞬にして霧散した。
 そして、襲い掛かってくる強烈な眠気。
「うわあああああああああああっっっっ!!!!!」
 俺は目をかっと見開き、大声を張り上げながら必死の抵抗を試みた。
 しかし、石でも乗っけられたんじゃないかと思うくらいに目蓋が重い。全身が言うことを聞かず、溶けるように力が抜けていった。像を結ばずアメーバのようにあやふやに形作られたイメージも、視界と一緒にぼんやりと滲んで色まで失い、やがて目の前が真っ暗になる。
 ああ。
 ああ――ここまでか。悔しいな。

「おやすみ」

 その言葉に、沈んでいこうとしていた意識が、少しだけ引き戻された。

「『おおがらす』」

 囁くような声。なのに、はっきりとここまで届く。目頭が、じわりとあたたかくなった。
 細く開いた目には、まだ新しいスニーカーが色鮮やかに飛び込んで来る。動きやすいのを探してると言われて、みんなで一緒に買いにいったやつだ。どれがオススメかで三人が揉めて、結局全く違うのが選ばれたんだ。つい最近の記憶さえ、とても懐かしく感じる。
 ――和葉さん。
 浮かんだ名前は、胸の中へと温もりを広げていった。
 萌黄色のスニーカーの向こうに見える、白く揺らめく繭。隣にはへたり込む店長の姿があった。そのまま尻で歩くようにして下がり、慌てて立ち上がる。
「こより! こいつらをもう一度固めなさい!」
 女の子はひたすら嗚咽を漏らし続けるばかりで動かない。『おおがらす』も床に突っ伏し、死んだように眠っていた。
 店長の声は、さらにヒステリックに高まる。
「泣いてる場合じゃないんだからね! こいつらにやられちゃったら、もうパパに会えなくなるのよ! こより!」
 和葉さんはそっちと俺とを交互に見ながら、どう動くべきか迷っているようだった。
「……こよりちゃん」
 俺は意を決して言う。喉がひりついて、声が出にくい。胸もまた、ずきりと痛んだ。
「こよりちゃんのパパって、仁科さん……だよね?」
 その途端、彼女は弾かれたように顔を上げる。
「パパのこと……知ってるの?」
 思ったとおりだった。俺は無理にでも笑顔を作ろうとする。
「知ってるよ。俺、パパが作詞した歌、大好きなんだ。パパの歌が、俺たちをここまで連れてきてくれた」
「ほんと……?」
「ホントなわけないでしょ! あんた、パパに会えなくなってもいいの!? パパにもあたしたちにも守ってもらえなくなって、能力まで眠らされて、ここから出て一人で生きていけるの!?」
 店長の言葉に、こよりちゃんの顔がこれ以上ないというくらいに青ざめた。
 これまでもこうやって脅して、いうことを聞かせていたんだろう。その卑劣さに腹が立つ。俺は声を嗄らして訴えかけた。
「こいつらが本当の悪い奴だよ! こよりちゃんとパパを騙してたんだ! 俺たちなら、君とパパを会わせてあげられる!」
 確証はなかったけど、確信はあった。店長はそんな俺を憎々しげに一瞥する。
「役立たず! じゃああんた一人で勝手にすればいいわ! さっさとドアを開けなさい!」
 強い口調で命令され、こよりちゃんはびくりと体を震わせた。和葉さんが行く手を阻もうと動くのを尻目に、ヤツは反対方向に向かってダッシュする。
 まだ残っているカーテンの向こう、ベッドの斜め後ろにはいつの間に現れたのか、小さな扉。
 ――しまった、ここはそもそも普通の空間じゃなかったんだ。
 和葉さんは急いで茨を向かわせるが、間に合わない。
 逃げられる――そう思った時、店長が扉の手前で、突然派手にすっ転んだ。
 誰もすぐには動けずにいる中、カーテンがゆらりと揺れる。
「俺のことも忘れてもらっちゃ困るな」
「あんた――!?」
「渡部!」
 それは確かに、渡部その人だった。眼鏡の奥の瞳は、虚ろにあらぬ方向を見るのではなく、いつものように妙な自信に満ち溢れている。
 そしてもう一人。
「『うつばり』は、ここの二階の部屋に閉じ込められてるみたい!」
「まなちゃん!」
 立木も元気に手なんか振ったりしながら、カーテンの陰から出てきた。もう一方の手に握られた古めかしい手鏡には、どこかの部屋の中、力なくうなだれる男の人の姿が映し出されている。
「いい? パパを閉じ込めたのはあたしたちじゃない、こいつらだからね!」
「パパ……!?」
 鏡を見せられたこよりちゃんは、目に大粒の涙を浮かばせ、それからぎゅっと唇を噛み締めた。
「そ――そんなのトリックよ! インチキ、マジック、手品なの! テレビで見たことあるでしょ!? 騙されないで、こより! ずっとあたしたち、仲良くしてきたじゃない!」
 店長はこよりちゃんを必死で説得しようとする。出て行くはずだった扉は、元通りただの壁になっていた。
「こより、ドアを開けて! 早く! お願い!」
 でもそれに返ってくるのは、涙と不信感をいっぱいに湛えた目。足下からじわじわと黒い色が這い上がってくるのに気づいた男は、それから逃れようと必死で体をよじった。
「やめて、こより! ――やめろ! 放せ!」
 その言葉は誰にも届かない。止めたのは、和葉さんだった。
「こよりちゃん。後は私の仕事だから大丈夫。ね?」
 目を見張る彼女に微笑み、和葉さんは泣き叫ぶ店長の周囲につむを刺した。
「おやすみ。――『千匹皮』」
 白い繭が、それでも優しく全てを包み込む。
 消えた後には、穏やかに寝息を立てる女が横たわっていた。
 ようやく、ほっとした空気が部屋の中を満たす。視線が交差し、自然と俺のところへ集中した。
「たかやくん!」
 和葉さんが慌てたようにやってくる。立木も、渡部も。
 その姿は魚眼レンズを通して見たみたいに不思議に歪んで、ふわふわとしていた。
「今、縄ほどくからね!」
「しっかりしろよ!」
 声が耳の中で反響して聞き取りづらい。手足も、胸の痛みも、じんじんと痺れて遠くなっていく。
 体に触れる手のぬくもり。乱暴に肩を掴まれた時とは全然違う。その温度がとても心地よくて、心強かった。
 和葉さんが何かを言っている。――和葉さん、泣いてるのかな。それとも、泣いてるのは俺なのか。和葉さんも、視界に入った立木も、渡部も、みんなさらに顔がぐにゃぐにゃになって、まるでゲームとかに出てくる変なキャラみたいだ。それが妙に可笑しくて、俺は笑おうとして。
 そのまま、意識を失った。

 ◇

「他に何かして欲しいことある?」
「いや……特には。そんな大したことないし」
「肋骨にひびが入ってるのは大したことって言うの! あのね、あちこち怪我して、昏睡状態が続いてるって病院から連絡受けて、みんなどんな思いしたと思ってんの?」
 自分でも大したことじゃないと考えていることに若干の驚きはある。覚悟というと聞こえはいいけど、あの時はただ無我夢中で、もう先はないくらいに考えていたせいかもしれない。
 怪我はしばらく安静にしてれば治るみたいなんだけど、ずっと眠り続けていたのが医者には気になったらしく、念のため精密検査をするということで入院が長引いてしまった。
 流石に『語り手』としての力を使いすぎたせいで……とは口に出来ないし。
「おまけに事件に巻き込まれたって……もう、みんながどんな思いしたと思ってんの!?」
 姉貴はよほど腹に据えかねているのか、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「ほんと、あんたって妙な正義感ある割にどっか抜けてるしバカだし昔は可愛かったけど今は全然可愛くないし」
「……ごめん」
 散々な言われようにもやもやした思いは抱えつつも、心配をかけたのは確かなので俺は素直に頭を下げた。
「とにかく、また来るから。お大事に」
「うん」
 溜め息をつき、病室から出て行こうとする後ろ姿を、俺は呼び止める。
「姉ちゃん」
「何?」
「うん……ありがと」
「素直でよろしい」
 俺は姉貴の姿がドアの外へと消えるのを見送ってから、果肉を小さくカットし、皮で作ったカップに盛り付けたオレンジを眺める。姉貴の新たな面を見たようで驚きつつ、ピックが突き刺さりまくってるのは気遣いなのか腹立ち紛れなのか判断に迷うところだ。一つ口に運ぶと、甘酸っぱい味わいが、まだ残る傷に少し沁みる。
 目が覚めた時の、みんなの表情を覚えてる。普段見せない親父や姉貴の表情もさることながら、ばあちゃんやお袋が泣いてるのを見るのは辛かった。それだけ大ごとだったんだという思いの一方で、仁科親子が無事だったという知らせを受けて、諦めないで良かったという思いもある。
 情報は和葉さんたちとのグループを通じてもやって来たけど、もしそうじゃなかったとしても、どこかで知ることにはなっただろう。ニュースで何度も取り上げられた、ライブハウスのオーナーと娘の監禁事件。犯人はそこの店長をしていた女と友人の男で、昏睡強盗などの余罪もある。事件には、16歳の少年も巻き込まれた。
 俺はあの後、病院に運ばれたんだが、手足に残る拘束の跡は誤魔化せず、事件性を疑われて通報されたらしい。事情は仁科さんが上手く話してくれたらしく、俺はあんまり警察から突っ込んだことは聞かれなかった。
 まあ、目覚めたばっかでぼんやりした頭で答えてたから、こりゃダメだと思われたのかもしれないけど。
 入院を知ったタケや、和葉さんたちも改めてお見舞いに来てくれて、他愛のない話もした。どうでもいい話がこんなに楽しく、心地よく感じたことは今までなくて、こんな目に遭ったことで、普段当たり前と思って過ごしていた人の優しさとか、ありがたみにも触れられた気がする。
 真っ白な部屋の中、そんなことをぼんやりと考えながら窓の外を眺めていると、遠慮がちにドアを叩く音がした。
「どうぞ」
 そう答えたものの、ドアは開かない。しばらく眺めていると、ゆっくり重そうに開いたドアの隙間から、小さな花束がにゅっと顔を覗かせた。
「……?」
 無言でそれを見守る俺の前で、今度はドアが大きく開く。そこには仁科さんと、慌ててその後ろに隠れるこよりちゃんの姿があった。
「あっ、こんにちは」
 この前会った時よりも、二人ともずいぶん元気そうだ。――って、入院してる俺が言うことでもないか。
「こんにちは。……ほら、こより、入るよ」
 仁科さんに引っ張られるようにして、こよりちゃんはおどおどと部屋に入ってくる。小さな花束も、一緒にゆらゆら揺れた。
「こより。こんにちは、お加減いかがですか? って」
 促されると、彼女はぴょこんと小さくお辞儀をする。
「……こんにちは」
 それからまた沈黙。
 何だかいたたまれなくなってきた頃、ぽんと背中を押され、よろけるようにして前に出てくる。
「……おにいちゃん、ごめんなさい」
 こよりちゃんは俯きながら、小さな声で言った。そして、花束を俺へと押し付けるように差し出す。
 その姿に、じわりと胸があたたかくなり、俺も言葉に詰まってしまった。あの場を切り抜けるためとはいえ、かなり恐い思いをさせちゃっただろうし。
「俺の方こそ……あれ?」
 花束を受け取り、ようやく俺が言葉を発した時には、彼女はもうドアの方へと小走りに向かい、そのまま部屋を出て行ってしまった。
「いいんですか?」
 我に返り、部屋に残ったままの仁科さんに聞くと、頷きが返ってくる。
「君の仲間と一緒に来たんだ。誰かが相手してくれてるだろ」
 それなのに、俺からはあんな勢いで逃げるなんて。その思いを見透かしたかのように、彼は控えめな笑みを見せた。
「君は特別なヒーローだから、気恥ずかしいんだよ。複雑な乙女心って奴さ」
「えっ」
 そういうことを言われると、こっちの方が恥ずかしくなってしまう。その反応が面白かったのか、今度は軽やかな笑い声が上がった。
 それから仁科さんは急に真顔になると、頭を下げる。ぼさぼさの長い髪がバサッと顔を覆い隠した。
「……改めて、色々と迷惑をかけてすまなかった」
「え、いや……そんな。もういいですって」
「僕がいけないんだ。母親を亡くしたばかりのこよりに、さらに寂しい思いを強いてしまった。僕自身割り切れなくて色んなことから逃げてたからね。だからあんな奴らにつけ込まれる隙ができちまった」 
 しばらく、無言の時間が流れる。
 この前会った時には大して話は出来なかったから今がチャンスなのに、いざとなると何を聞いたらいいのかわからない。
「……いい歌ですね。”Spinner’s Song”」
 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。口に出してから本当は違うタイトルだったことを思い出したけど、訂正はしない。仁科さんもそのことには触れずに、少し照れくさそうに首のあたりを掻いた。
「僕は頼まれて歌詞を書いただけだけどね。いいだろ? アルガンノア。才能あるのに中々売れなかったんだ。今回のことは彼らにとってはチャンスになったけどね」
 今、アルガンノアは注目のバンドとしてメディアに取り上げられることが多くなっている。テーブルの上にある音楽雑誌にも、その名前が大きく載っていた。
 今回の事件は犯人の名前以外、公になることはなかったし、映像でもライブハウスの外観はぼかされていたんだけど、人の口に戸は立てられないってやつで、”Glass Coffin”のサイトを訪れる人も激増し、関わっていたバンドも一気に注目度が上がった……ということらしい。
 しかしニュースでは店長は女と言われ、写真も出ていて、実際それが本来の姿だったみたいだけど、そこには誰も疑問は持たないのかな。きっと持たないんだろうな。
「なんで歌詞の中に、『紡ぎ手』の名前を?」
「君たちが『アメフラシ』を追いかけていた動画を、僕は見せられていたんだ。映像であっても相手の能力はわかるから。その『うつばり』の力で小坂――『千匹皮』だね、彼女の能力を見破ってしまったのが、全ての始まりだった。こよりとバラバラに監禁されて、お互いのことを人質にして脅されて……きちんと人付き合いしとくんだったと、本当に後悔したね」
 小さく溜め息をついてから、仁科さんは続ける。
「だけどアルガンノアが、イベントに合わせて僕に作詞を依頼したいと言ってきて、小坂も誤魔化しきれないと思ったんだろう。僕に歌詞を書けと持ってきた。その時、思いついたんだ」
「もしばれたらって、思いませんでした? それに……」
「何の意味もなかったかもしれない」
 言葉を濁した俺に彼は肩をすくめてみせ、置いてある椅子にようやく腰を下ろした。
「その可能性も考えたけど、それ以上にチャンスだと思った。あいつらは音楽を愛していなかったしね。それに、映像で君を見た時、君なら気づいてくれるっていう、そんな予感がしたんだよ。彼らの音楽をきっと気に入ってくれるっていう予感がさ」
「……俺が気づいたんじゃないですけどね」
「ま、結果としては似たようなものだよ。細かなプロセスは気にしちゃいけない」
「『ヘンゼルとグレーテル』が和葉さんを狙ったのも、あの二人のせいなんですか?」
「防犯カメラの映像もよくチェックさせられていたからね。その後、ええと……渡部君と立木君だったね。彼らの画像も見せられた。多分『おおがらす』が調査して、情報をあの兄妹に流したんだろう」
 男の方は『おおがらす』と呼ぶあたり、あんまり面識がなかったのかもしれない。
「仁科さんは、相手の能力の詳細までわかるんですか?」
「ああ。『白雪姫』のように、遠くにいる『紡ぎ手』を探し出したりは出来ないが」
 次の言葉を出すのには、何故だか少し、ためらいがあった。でも結局、俺は口にする。
「じゃあ、『語り手』についても、わかりますか?」
「……申し訳ない。僕にも詳しくはわからない」
 その答えにがっかりするよりも、やっぱりという思いの方が大きかった。
「映像を見ても、君だけは何者なのかが見抜けなかった。ただ、一般人であるということはありえないから、恐らく『語り手』だろうと」
「でも『千匹皮』は、俺の能力について知ってるみたいでしたよ?」
「それは、君たちの戦いをどこかで見ていたのかもしれないし、元々情報として持っていたのかもしれない」
「……みんな、色んなこと知ってるんすね。自分の能力のこととか、俺はさっぱりなのに」
 いつもそこに何か――疎外感とでもいうようなものを感じていた。
 俺自身もう『普通』ではないのは確かなのに、『紡ぎ手』とはまた違う場所にいる。和葉さんたちに指摘されるまで覚醒の自覚もなく、能力のことも一切わからない。他のみんなもわからないと言いながら、『語り手』という存在は知っている。
「恐らく、元々知っていることを思い出しただけなんだろうけどね」
 仁科さんは少し自信なさげに言った。
「どこかに『物語領域』に関する――そう、データバンクのようなものがあって、『紡ぎ手』たちはそこから無意識のうちに情報を引き出してくる。知らず知らずのうちに自らの知識となっているから、いつそれを知ったのかは思い出せない。僕は、そう考えている」
 そう言われてみると、渡部が調べたという情報もどこか曖昧だった。大体、どうやって調べたのかも謎ではあるし。
 だけど、俺にはそんな情報の断片すらない。
「『語り手』にもそういうのあるんでしょうか。あるのに、俺が情報を引き出せないだけなのかな。俺も色々わかれば、もっとみんなの役に立てると思うんですけど」
 すると仁科さんは唐突に吹き出し、さも可笑しそうに笑い出した。
 呆気にとられる俺に、彼は顔を歪ませながら言う。
「君はまるで自分が役立たずみたいな物言いをするんだね。呆れたな。ずっと仲間を助けてきて、最後の一人になっても諦めずに、僕たちのことも救い出してくれたのに、その言い草はあまりにも自分に対して失礼じゃないか?」
「自分に失礼……」
 そんな考え方をしたことがなかったから、斬新に聞こえる言葉だった。仁科さんは俺に何度も頷く。
「そう、失礼だ。こよりが言ってたよ。あのおにいちゃんがパパの話をしてくれた時、すごく嬉しかったって。おにいちゃん、すごくカッコ良かったって。僕も同感だね」
 そうして仁科さんは微笑む。どこか神経質そうに見える彼の、娘の話をする時の表情はふわっと柔らかい。
「『語り手』には多分、『物語』を面白くしたり、つまらなくしたりする以上の役割がある」
「役割?」
「ああ。僕は音楽は大好きだけど、楽器とか歌の才能はあまりなくてね。だから才能を持つ人たちを応援したくて、その人たちの音楽を知ってもらいたくて、今の店を始めたんだ。『語り手』だってそうだろう? 『物語』と『人』とをつなぐ橋みたいなもんだ。君はどちら側にも属さないかもしれないが、どちら側でもある。それは素晴らしい才能だと、僕は思うけどね」
 その時、ガラッと音がした。そっちを見ると、少しあいたドアから、こよりちゃんが顔を覗かせている。
「ああ、そろそろ行かなくちゃ。これからこよりの転校の手続きをすることになってて」
「どこかに引っ越すんですか?」
「そんなに遠くじゃないよ。店には顔を出すから、またライブも観に来てくれよ。少しくらい割引するからさ」
「割引っすか」
「こっちもビジネスだからね」
 そう言ってまた掴みどころのない笑顔を見せ、仁科さんはこよりちゃんの手を引いて帰っていった。

 ◇

 まだまだ暑い日は続く。セミの声は少し物悲しげな響きへと変わっていた。
 俺はエントランスをくぐり、エレベーターへと乗る。7階まで上がり、滑らかな質感の扉の前に立ってインターフォンを鳴らした。
 待つ間、緊張が高まる。すでに退院はしてたんだけど、しばらくは激しい動きは出来ずにずっと自宅にいたから、ここに来るのも久々だった。
 しばらくしてドアの向こうで気配がし――三人がいっぺんに出てくる。
「退院おめでとう!」
 それからパン、パン、パンという音とともに、色とりどりの世界が目の前に広がった。
「うわっ」
 驚いて立ち止まる俺は、飛び出したテープと一緒に部屋の中へと回収される。
「ちょ、ちょっと待って――」
 そして有無を言わさず『事務所』へと通され、いつもの席へと座らされた。
 殺風景だった部屋は色鮮やかに飾り付けられ、テーブルの上にはジュースやサンドイッチ、ピザ、お菓子などがずらっと並んでいる。
「え……なんか豪勢だけど」
「うん、だからたかやくんの退院のお祝い」
「――にかこつけて、みんなでパーティーしようってことになったの!」
 それから三人ともそれぞれ席についた。
「あ、ありがとう」
「パーティー費用はワリカンだからな」
 渡部の余計な一言も、今日は何だか微笑ましい。
 こうやってみんなが祝ってくれることもだけど、ここに四人また揃ってるのが何より嬉しかった。
「それじゃ、乾杯しよう」
 和葉さんの一言で、グラスにジュースが注がれる。
「じゃあ佐倉くんから何か面白い一言」
「えーと……お、面白いって!?」
「かんぱーい!」
 自分から振っておきながら、唐突に言われて悩んでる俺を差し置き、立木はさっさと乾杯の音頭を取ってしまった。
 わたわたとする俺を見てみんな笑いながらも、グラスを合わせる。
「……そうだ」
 和葉さんは一口ジュースを飲んでから事務机のほうへと向かい、そこに置いてあった紙袋を持ってくると、中から何かを取り出した。
「これ、仁科さんから預かってきたの。はい」
 渡されたのはCDだった。ジャケットにはサインが入っている。
「アルガンノアの新譜だ」
「ええ、退院したらお祝いにあげてって」
「”Glass Coffin”に行ったの?」
「ううん、駅のカフェで。近くまで来たついでだって言ってた」
「へぇ……」
 ちょうど買おうかどうか迷ってたところだからありがたかった。ジャケットのデザインも洗練されていて、メジャーになったんだなっていう喜びと、遠くに行ってしまったような寂しさがないまぜになる。
「いいなー、佐倉だけ」
 ぼやく立木の前にも、同じCDが差し出される。きちんとサインも入っていた。
「えっ、これあたしの?」
「うん、四人分くれたの」
「俺は別に欲しくはないが」
 喜ぶ俺たちの隣で、渡部がむすっとしながら言う。
「じゃあめっけちゃんの分も、佐倉にあげちゃおうよ、退院祝いで!」
 紙袋に手を突っ込み、立木が俺の手の中にもう一枚CDを置いた。それはすぐに別の手によって奪われる。
「こいつにやるくらいなら、俺がもらってやった方がマシだ」
 相変わらずめんどくせーなと思いつつ、俺は気になっていたことを聞いてみた。
「ところで、活動は?」
「実はあれ以来、あまり『紡ぎ手』関連の事件がなくて」
 すると和葉さんが、紙袋を元の場所にもどしながら答える。
「そーそー、だから結局お茶したり遊んでることのほうが多かったよね」
「へぇ、今まで地道に続けてきた活動が実を結んだってことなのかな」
「そもそも、そんなにあってたまるかよ」
 確かに渡部の言う通りかもしれない。とにかく、平和なのが一番だよな。
 俺がサンドイッチに手を伸ばし、もぐもぐとやっていると、立木が俺の持ってきたリュックを目ざとく見つけ、指差した。
「それよりさ、あんたあの荷物、宿題じゃないの?」
 図星です。パンが喉にひっかかり、咳き込む俺。あっ、まだ肋骨が若干痛い。
「やっぱりー。みんなに手伝ってもらおうって魂胆でしょ!」
「――そ、そういう立木は終わったのかよ!」
 ジュースで急いで流し込み、涙目でにらむと、ヤツは自信たっぷりに胸を張る。
「当然でしょ! あと夏休み終了まで十日もないんだよ!?」
「う――嘘だ!」
「ほんとですー、佐倉くんとは違うんですー」
「……私たちも手伝ったけどね」
「ヒマだったからな」
 和葉さんと渡部がスナック菓子をぽりぽりやりながら言うと、立木は途端に静かになる。
「ほら、やっぱな!」
「で、でも、教えてはもらったけど、自分で頑張ってやったのは事実だもん!」
 うーん……でも和葉さんと渡部のダブルスパルタを乗り切ったのは、頑張ったといえば頑張ったかもしれない。
「だけど今回は怪我もして入院もあって、色々大変だったわけだし、宿題くらい頼ってもらってもいいんじゃないかな?」
 和葉さんの素晴らしいフォローに、立木は急にトーンダウンした。
「まあ……そうだね。あたしのせいでもあるから。ごめん」
「そういうのは言いっこなしだろ。ま、佐倉がMVPなのは間違いないから、少しは優しく教えてやるよ」
 珍しく立木や渡部まで優しい言葉をかけてくれて、何だかかえって居心地が悪い。
「で? どこをやってないんだ?」
「それは……」
 リュックを鷲づかみにして中から宿題を取り出し、早速確認を始めた渡部の手が止まる。
 そして持っていた問題集をいきなり俺に投げつけてきた。
「ひとっつも、やってねーじゃねーか!」
「いてっ! ――い、いやだから、怪我の療養中だったわけで」
「家でダラダラしてんだから、少しくらいは出来るだろうが、このボンクラ!」
「ちょっと、落ち着こうぜ! まずは落ち着こう!」
 その剣幕に俺が逃げ惑っていると、隣で大きな音が。
 恐る恐るそちらを見れば、テーブルの上に落ちた英語の教科書がグラスをひっくり返していた。
 ――その先には、白いシャツに地図のようなシミを作った立木。
「おいコラ」
「い、今のは俺のせいじゃないって! 渡部が、渡部が物を投げるから!」
「俺のせいにすんじゃねーよ、お前が悪いんだろ!」
「よーしわかった。じゃあ二人揃って手鏡の刑な!」
「ちょっとまなちゃん落ち着いて! ピザが! ピザが落ちるの!」

「……日が落ちるのが早くなったみたい」
 和葉さんは言って、空を見上げた。俺は「そうだね」とだけ言って隣を見る。
 今日は結局みんなで大騒ぎして、後片付けしてたら時間が来てしまった。宿題のことを考えると気が重いけど、そもそも自分でやらなきゃいけないわけだし、せっかくのパーティーだったし、楽しかったからいいか。――いいよな、多分。
「宿題は、またわからなければグループで聞いてくれれば、誰かが答えられると思うから」
 そんな心の声が聞こえたかのように言われ、俺は頬を掻く。
「立木のことは当てにしてないけどね」
「そう? まなちゃんに聞くのが一番手っ取り早いんじゃない?」
「あ、そういえばそうだ」
 俺たちは顔を見合わせて笑った。『仲間』としての印象が強すぎて、学校で同じクラスだということをつい忘れてしまいそうになる。
 笑いがおさまると、次の話題が見つけられずに、俺たちは無言で歩いた。
 俺は今日は自転車で来てたし、一人で帰ろうとしたら、和葉さんが同じ方向に用事があるというので、途中まで一緒に行くことになっている。
「ところで、どこに――」
「あっ、ねぇ、ここ覚えてる?」
 俺が口を開くのと同時に、和葉さんが指を差す。そこには、何の変哲もない電信柱。一瞬何のことかと首を傾げたが、薄暗い中、周囲の景色を見ているうちに思い出した。

『まなちゃん、もうやめよう? 可哀想だよ』

 そういえば立木はソウタの時だけじゃなく、最初から演技派だったな。本気で困ってるように見えたから、変な汗だらだらかいちゃってさ。
「あの時、和葉さんが出てきてくれなかったらと思うと今でもゾッとする」
「だって、本当に可哀想だったから」
 和葉さんもその光景を思い出したのか、くすくすと笑った。
「あれから――図書館のところで会ってから、まだ三ヶ月も経ってないんだね」
「ほんと、色んなことがありすぎて、ずっと前のことみたいな気分だよ」
 思いがけない出会いがあって、思いもしなかった世界があって、人生初の入院や事情聴取を受けたりして。本当に沢山のことがあって忘れられそうもない夏は、慌しく過ぎようとしている。
「うん、私も、そういう気分」
 思わず和葉さんの方を見ると、彼女はまだ電柱のあたりをじっと見ていた。
「……『ラプンツェル』との戦いの時、覚えてないかもしれないけど、たかやくんと一瞬だけ目が合ったのね」
「覚えてるよ」
 和葉さんは少し驚いたようにこっちを見て、「そう」と微笑む。俺にとってはむしろ、和葉さんが覚えてることのほうが驚きだった。
「その時、人に見られたって思った。たかやくんは『紡ぎ手』には見えなかったから。でも何の衝撃も来なくて、たかやくん自身驚いてはいたけど、あの状況を受け入れて、私を助けようとさえしてくれた。それが……とっても嬉しかった」
 意外な告白に、俺は上手く言葉を返せない。
「私はそれまで他の『紡ぎ手』に会ったことはなかったから、まなちゃんに見つけてもらった時も嬉しかったし、りょうくんと知り合えたことも嬉しい。でもね、それとはまた違った嬉しさだったの。上手くいえないんだけど……ひとりの人として、認められた気分とでもいうのかな。だから、たかやくんと出会えて、本当によかった。これからも、宜しく」
 和葉さんは呆気にとられる俺にぺこりとお辞儀をしてから、照れくさそうに笑う。
「それじゃ、またね!」
 そしてくるりと踵を返し、急いで来た道を帰っていった。
「あ、あの――」
 用事はいいのかな、と言いかけて、もしかしたらこれが用事だったのかもしれないと思い至る。すると妙にドキドキしてしまって、顔が火照っていくのがわかった。
 小さくなっていく和葉さんの背中を眺めながら、ふと、仁科さんの言っていたことを思い出す。言葉は違うけど、もしかしたら同じことを言っているのかもしれない。
「……またね」
 後ろ姿が完全に見えなくなってから、ようやく俺は小さく言う。
 そう口に出来る幸せを、噛み締めながら。

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